渡辺洪基宛ほか、関連の福沢書簡2023/08/26 07:02

 『福澤諭吉書簡集』には、渡辺洪基宛書簡が2通、名前の出てくる書簡が2通ある。 第二巻、書簡番号274、渡辺洪基宛、明治11年10月19日付。 学習院(華族学校)次長となった渡辺洪基に、馬場辰猪を学習院の専任教員として雇い入れるよう周旋を依頼するもの。 書簡番号287、渡辺洪基宛、明治11年12月12日付。 渡辺洪基に、馬場辰猪の学習院教師採用を催促し、大河内輝剛の教員就職を依頼するもの。 後段の大河内輝剛は、旧高崎藩主の子爵大河内輝声の弟で、明治5年11月入塾、11年7月本科卒業、のち14年4、5月頃、渡部久馬八の後任として慶應義塾塾監に就任した。

 註にあった『福澤手帖』73、川崎勝さんの「書簡からみた福沢諭吉と馬場辰猪―渡辺洪基、草郷清四郎宛他書簡」を読む。 福沢の最初の書簡274は、渡辺洪基の学習院次長就任のわずか15日後に出されたもので、この年の5月12日にイギリス留学から帰国して定職のなかった馬場辰猪を正式の教師に採用するよう依頼している。 辰猪は「これまで該校へ「私ニ」出席講義抔致居候事」とある。 福沢書簡のこの記述は、辰猪の弟馬場孤蝶の回想にある、辰猪は「学習院を一週に二度くらい教へに行くのであった」の傍証となった。

ほぼ2か月後の、後の書簡287は、馬場採用の話がまったく進展していないことに対して、きわめて婉曲的な表現で催促している。 後段の大河内輝剛については「華族ニは珍らしき」人物で、「今華族中ニも斯る人物あるを知らしめなバ或ハ該族一般の面目随て学習院之飾ニも可相成哉ニ被存候」と、校風に新風を吹き込んで華族の刷新をはかることを意図しての推薦であったと考えられ、このことがまた渡辺の学習院改革に対する福沢の期待であった、と川崎勝さんは指摘している。

しかしながら、結局、馬場辰猪、大河内輝剛はともに、学習院の教師として雇われることなく終わったのだそうだ。

 第七巻、書簡番号1757、北里柴三郎宛、明治26年4月1日。 伝染病研究所設置に対する反対運動の様子を伝え、新情報を求める手紙。 松山棟庵から芝区の反対運動について聞いたので、渡辺洪基に手紙を出したところ、「事実ハ安心なれども、凡俗之感情如何ともすへからす云々之旨、返詞申参ニ付、最早致方無之、明日之時事新報ヘ、少々筆鋒を鋭くして一言致候積り。」とある。 註に、渡辺洪基はこのとき芝区住民として反対運動に加わっていた、とある。

 第九巻、浜野定四郎宛、年不詳11月10日。 明日の渡辺洪基の帰りは、ちょうど昼になるから、拙宅で西洋料理を供するつもりなので、同席願いたい、小幡篤次郎、門野幾之進、益田英次(教員、19年3月以降塾監)にも、その旨、伝えてほしい、という手紙。 『福澤全集』は、明治18、9年頃、渡辺が東京府知事として義塾を訪問した際と推定しているが、決め手を欠くそうだ。