横井小楠、「全世界の道理」を討論で2023/08/21 07:11

 幕末の儒学者・開国論者の横井小楠(1809(文化6)~1869(明治2))については、7月30日の朝日新聞朝刊「日曜に想う」、有田哲文記者の「幕末に夢見た 世界レベルの討論」である。 勝海舟は、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲だ」、西郷隆盛のすごさはその行動力にあり、小楠は「その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬ」(「氷川清話」)と言った。

 熊本藩士の子として藩校に学び、江戸にも遊学したが、藩の主流派と対立し、重用されなかった。 しかし、その有能さを見ていた幕末のキーパーソンの一人、福井藩主、松平春嶽から顧問に招かれ、そのブレーンとして一気に表舞台に立つ。 各藩を疲弊させる参勤交代をやめ、代わりに藩政の報告・討論を藩の任務としてはどうか。 小楠の提案は一時、幕府も容れるところになる。 クライマックスは1863(文久3)年、京都での「大会議構想」である。

 開港か、条約破棄かで日本が割れ、異人を斬るのが攘夷だと考える者たちが跋扈する。 そんな時代に小楠がこだわったのが「話し合い」だった。 公家や大名、庶民の代表まで交えた会議を京都で開く。 開国派も攘夷派も含めて。 日本に駐在する各国の代表も呼び、討論に加わってもらう。 小楠のアイデアをもとにした春嶽の意見書によれば、めざすのは「地球上の全論」を通じて「全世界の道理」を発見することだ。

 小楠の思想の大きさに魅せられ、研究してきた歴史学者の松浦玲さんは、「みなに思うことを徹底的にしゃべらせれば、そこから真理が出てくる。日本だけの話ではなく、世界を含めて。幕末にそんなことを考えたのは小楠だけだった」と言っているそうだ。

 むろん小楠も、強制力なしにそんな会議ができるとは思っていない。 開催のために福井藩の全軍事力を動員し、薩摩など他藩にも協力を仰ごう。 しかし足元の福井藩にも慎重論が強まってくる。

 夢破れて郷里に戻った小楠が、地元の若者と問答した記録がある。 「日本が自ら強くなって宇内(世界)に横行するために、海軍を創設し、航路を開く」という当時盛んだった積極的開国論を批判してこう述べている。 一国の横行は「公共の天理」に反している。 世界に乗り出すには国際紛争を解決するくらいの意気込みが必要だ。 単に勢力を張るだけなら後に必ず「禍患を招く」。 欧州では偏狭なナショナリズムが戦争をもたらしている、とも口にしている。 列強にいかに対抗するか、という発想はそこにはない。

 明治新政府ができると、小楠は参与に招かれたが、1869(明治2)年に暗殺された。 享年61。 毎年2月の命日に、熊本市内の墓前で慰霊の行事があり、近くの小学校の子供たちが小楠の言葉を朗誦するのだそうだ。 「尭舜孔子の道を明らかにし/西洋器械の術を尽くさば/何ぞ富国に止まらん/何ぞ強兵に止まらん/大義を四海に布(し)かんのみ」

松戸の戸定邸(とじょうてい)<等々力短信 第1170号 2023(令和5).8.25.>2023/08/21 07:13

松戸の戸定邸(とじょうてい)<等々力短信 第1170号 2023(令和5).8.25.>

 大河ドラマ『どうする家康』で、徳川家康の小姓から赤備えの武将になってきた井伊直政の板垣李光人、「りひと」と読む名はドイツ語の「光」Lichtから来ているそうだ。 一昨年の渋沢栄一(吉沢亮)を描いた大河ドラマ『青天を衝け』で、徳川慶喜の弟・昭武(14歳)を演じた少年民部公子が印象深い。 将軍慶喜の名代として慶應3(1867)年のパリ万博に日本代表で派遣され、随行した渋沢栄一らの幕臣は、薩長に対抗するために小栗上野介が、フランス公使ロッシュと練り上げた幕府の起死回生策、フランスから600万ドルの借款を調達する密命も帯びていた。 しかし、万博の日本のスペースの1/3には薩摩琉球国の展示品が並び、借款も薩摩藩と英国の妨害で不調となる。

 万博後、3年から5年の予定で欧州留学のはずだった昭武だが、幕府が瓦解、慶喜は徹底恭順の意を示して謹慎、その直後兄の水戸藩主・慶篤が急死し、昭武はその後継者に指名される。 新政府は、昭武に帰国を命令、昭武は最後の水戸藩主となる。

 一方、慶喜は明治2年9月謹慎を解かれ、徳川の新封地静岡に移った。 司馬遼太郎の『最後の将軍―徳川慶喜―』によると、沈黙を守り、政治とのかかわりを避けて、渋沢栄一以外旧臣に会わず、渋沢が連れて行った幕末秘書のように寵用した永井尚志(なおむね)にも、会わなかった。 まだ数え33歳だった慶喜は、趣味生活に没頭した。 大弓と打毬、鉄砲猟と放鷹、宝生流の謡曲、油絵の稽古、「将軍をやめてよかったとおもうのは、この油絵をかいているときだ」といった。 そして写真、旧幕時代から撮られることが好きだったが、退隠後は現像するために暗室のなかで徹夜までし、とくに風景写真が好きで、静岡近辺のいい所はほとんど撮った。 三十年の蟄居の間、多くの子女ができた。 明治4年には長男と次男が同時に出来、明治5年にはその長男と次男が死んで三男が生まれ、翌6年にはその三男が死んで、長女がうまれるといういそがしさだった。 むろん母親はひとりではない。 子女のうち、成人した者だけで十男十一女であった。

 昭武は明治16(1883)年、家督を養子篤敬(あつたか)に譲り、翌年松戸に富士山や江戸川をのぞむ別邸・戸定邸と洋風庭園(芝生が植えられた日本最古)を造り、隠居した。 松戸宿は江戸時代には江戸と水戸を結ぶ水戸街道の宿場町だった。 松戸神社には二代藩主徳川光圀ゆかりの銀杏がある。 「戸定」は、松戸城(松浪城)の外郭「外城」に由来する地名。 明治30年代、兄の慶喜は何度も戸定邸を訪れ、昭武とともに趣味の写真撮影や狩猟、陶芸などを楽しんだ。 平成3(1991)年松戸市が「戸定が丘歴史公園」として整備、一般公開している。 園内の「戸定歴史館」(博物館)には、昭武と家族の暮らしや、慶喜・昭武兄弟の撮影した写真などの展示がある。