ラジオ放送による「電波戦」が始まる2023/10/13 07:07

 ドラマ『アナウンサーたちの戦争』、「言葉には力がある。言葉で世界を変える。それはラジオ。」と始まる。 災害の危険をいち早く知らせて、人を守るアナウンサー、声が兵器に変わっていく。 昭和14(1939)年5月、日本放送協会は愛宕山から日比谷の新会館に移り、情報は同盟通信社に依存することになった。 翌年12月には、情報局が設立され、日本放送協会はその傘下に入る。

 昭和15(1940)年2月、夜8時に靖国神社招魂祭の全国放送を実況した和田信賢は、遺族を綿密に取材して、「母ァさん、今年の米の出来はどうです。だけど母ァさん、嘆いていてはいけないよ、俺は故国の英霊となって、永遠に御国の為に生きているんだから、母ァさん、元気を出して生きていっておくれ。俺はいつまでも見守っているよ。」と、放送した。 それを聞いて、第五期新人アナウンサーで、研修を受けていた大島実枝子は感動し、和田が町を歩いたり、電車の中で、市井の人々や情景を、即時描写(実況)している姿に惹かれていく。

 昭和16(1941)年12月8日、午前2時には「西の風、晴れ」と放送していた天気予報が、午前4時から気象管制に入り、天気予報の放送は一切中止となった。 午前6時53分、和田は電話で布告の原稿を書き取る。 「大本営陸海軍部発表、今8日未明帝国陸海軍は西太平洋に於て、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。 午前7時、それを館野守男が「臨時ニュースを申し上げます」と放送した。 館野は、思わず息んだので、その言葉が国民の熱狂を生むことになった。 川添照夫(中島歩)は、憎しみを植え付けるように読むことに反対したが、情報局との連絡を担当する上司は、マイクが運ぶのは、国家の意志だ、と申し渡す。

 ラジオ放送による「電波戦」が始まった。 ナチスドイツが行うプロパガンダを手本に、戦意高揚や国威発揚を図り、時には虚偽の情報を発信して敵を攪乱させるのだ。

 日本放送協会は、南方へ170名の「電波戦士」を派遣し、放送局を開設した。 100を超える放送局が、言葉の力で戦意を高揚させ、敵軍を惑わす「謀略放送」で「電波戦」を行うとともに、日本文化の普及にも努めた。 フィリピンへは、松内則三(古館寛治)が局長、ナンバー2として米良忠麿(安田顕)が、ビルマへは、館野守男(高良健吾)が、仏印、ベトナムへは、今福祝(浜野謙太)が派遣された。 ジャワでは「謀略放送」で敵を欺き、言葉で勝利した。