小泉信三さんの「鏡花と滝太郎」<等々力短信 第1172号 2023(令和5).10.25.>(10.21.発信)2023/10/21 07:06

 金沢まで6時間かかっていたのが、北陸新幹線の「かがやき」だと2時間半になった。 福澤諭吉協会の旅行で金沢に行ったら、いろいろな所で小泉信三さんが出て来た。

 生家の跡にある泉鏡花記念館。 鏡花、本名鏡太郎は明治6年、腕のいい彫金師の父清次(工名は政久)、江戸葛野(かどの)流の大鼓(おおかわ)の家中田氏の娘鈴を母として生まれた。 鏡花文学には、父方の工芸の血と、母方の芸能の血が流れている。 尾崎紅葉の作品に心酔し、明治23年に17歳で上京、翌年牛込横寺町の紅葉宅を訪ねて入門を許され、玄関番として住み込む。 師の紅葉は、たった5歳上だった。 明治24年『義血侠血』を読売新聞に書くと、翌年上演され、『滝の白糸』として新派の重要な演目となる。 明治32年神楽坂の芸妓桃太郎(本名すず、母と同じ名)を知り同棲、紅葉の怒りにあって一度は離別するが、添い遂げるのだ。 それで、『婦系図』のお蔦が「切れるの、別れるのって、そんなことはね、芸者の時にいうことよ」と言う。

 小泉信三の親友、阿部章蔵の水上滝太郎は13歳で泉鏡花が『文芸倶楽部』に載せた「誓の巻」を読んだのが病みつきで、終生泉鏡花の讃美者、崇拝者、そして後には擁護者となった。 筆名にした水上滝太郎も、鏡花の「風流線」他の作中人物から採った。鏡花作品を全て断簡零墨に至るまで蒐集し、後に泉鏡花の全集を出す時に、役立った。昭和14年9月7日に鏡花が亡くなると、小泉信三塾長に頼み込んで、その遺品を慶應義塾に寄贈する手配をした。 慶應義塾図書館は東京大空襲に遭ったが、寄贈された泉鏡花の遺品は、図書館の八角塔から、地下に移され保管されていた為、難を逃れた。 その一部は、泉鏡花記念館の生誕150年記念「再現・番町の家」展に展示されている。

 小泉信三著『わが文芸談』(新潮社)「鏡花と滝太郎」に、いつか二人のことをピグマリオン伝説にひっかけて書いてみたい、とある。 地中海キプロス島のプリンス、ピグマリオンは自分で美しい女の像ガラテアを作り、その像にラブする。 彼は神に祈って、ガラテアを生きた人にしてもらうと、彼女と結婚する。 自分自身が作ったものによって、自分が支配されるのだ。 バーナード・ショウは、それを戯曲『ピグマリオン』にし、後にミュージカル『マイ・フェア・レディ』となる。 語学の天才ヒギンスが、街の花売り娘エライザを拾いあげて、正しい英語を教え、立派な貴婦人に育て上げる。 自分で作ったものだと思っているけれど、いつかヒギンスにとって、エライザはなくてはならないものになる。 小泉信三さんは、鏡花はピグマリオンで、滝太郎はガラテアとも言える、その鏡花が終始滝太郎に寄っかかって、その後半生を安んじたと言ってもよいというのだ。 鏡花の死後半年、滝太郎は後を追うように急逝した。