谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館2023/10/16 07:08

ガラス窓の外、紅葉が始まっていた

 金沢の町の主要部は、犀川と浅野川の二つの川に挟まれている。 河北(かほく)という地名は、二つの川(とくに浅野川)の北という意味だそうだ。 第一日目の見学場所は、金沢の西側、犀川に近い寺町周辺の妙慶寺の後、谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館、つづいて金沢の東側、浅野川に近い東山周辺の安江金箔工芸館、泉鏡花記念館、金沢蓄音器館だった。

 谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館、学芸員の話を聞く。 金沢建築館は、谷口吉郎の暮した住まいの跡地に建設され、長男の谷口吉生(よしお)が設計を担当した。 金沢生まれの谷口吉郎(明治37(1904)年~昭和54(1979)年)は、東京帝国大学工学部建築学科卒業、東京工業大学で講師、助教授、教授を務めた。 金沢で歴史的建造物が失われてゆくのを憂い、有識者とともに「金沢診断」を実施、保存と開発の調和をまちづくりの基本とする方針を市に提言し、それが契機となって日本で初めての景観保存条例である伝統環境保存条例が制定され、後に金沢名誉市民第一号となった。 谷口吉生は1937(昭和12)年生まれの85歳、慶應義塾高校から慶應義塾工学部機械工学科卒、ハーバード大学デザイン大学院修了、東京や京都の国立博物館の建築やニューヨーク近代美術館を設計した建築家で、金沢では鈴木大拙館、市立玉川図書館(吉郎が総合監修)などを設計している。

 参加者の加藤三明さん(元幼稚舎長)に「幼稚舎を設計したんですよね」と声をかけたら、「親子で」と言われた。 そういえば、福澤史蹟見学会で幼稚舎へ行って、親子二代の幼稚舎建築設計について「谷口吉郎設計の幼稚舎本館」<小人閑居日記 2012. 6. 27.>を書いていた。 このブログには、加藤幼稚舎長の「福澤先生と子ども、そして幼稚舎」<小人閑居日記 2013. 1. 24.>も、あった。

 谷口吉郎・吉生父子は、慶應義塾と深い関わりがある。 幼稚舎は1937(昭和12)年三田から天現寺に移転、慶應義塾の財務理事槙智雄は1935(昭和10)年、校舎の設計に若干30歳の新進気鋭の谷口吉郎を起用した。 昭和初期のモダニズム建築の秀作で、80数年経った今でも、常に真新しく感じられる、各教室への採光と換気、床暖房、グラウンドへの導線など、機能性に富んだ校舎を完成させた。 その後大学の日吉寄宿舎、戦後は戦災で荒廃した義塾の再建全体を潮田江次塾長のもとで担った。 比例の美しい縦長窓など、日本の建築空間としてのキャンパス・デザインに道を拓いた。 中等部校舎、大学第三校舎・学生ホール、第二研究室、大学病院は号病棟、女子高第一校舎、体育会本部等々、多くの建物を設計した。 谷口吉生は、1987(昭和62)年に幼稚舎新体育館・新館21、その後湘南藤沢中等部・高等部を設計した。

 金沢建築館には、1974(昭和49)年に谷口吉郎が設計した迎賓館赤坂離宮の和風別館「游心亭」の「広間」と「茶室」が再現されている。 木を素材とした柱と梁による開放的な軸組(じくぐみ)構造や、左右非対称の美、木材や土、紙などの材料自身の色彩、材質、感触などによる簡素で繊細な意匠を特徴とした日本の伝統的建築である。 その反対側の広いガラス窓の外、清らかな水面の先には、犀川と金沢の町並みが望める。 建築館から犀川河岸の(室生)「犀星の道」へと下りられる回遊路も作られている。