泉鏡花記念館と慶應義塾図書館2023/10/18 06:36

百万石通り、泉鏡花記念館前の由緒ありそうな店の建物

 再び浅野川を渡り、泉鏡花記念館へ。 百万石通りから正面に神社、久保市乙剣宮(くぼいちおとつるぎぐう)を見て入った右手に、泉鏡花が幼年時代を過ごした生家跡に建つ記念館がある。 「義血侠血」(「滝の白糸」)「高野聖」「婦系図」「歌行燈」「日本橋」「天守物語」の泉鏡花(1873(明治6)年~1939(昭和14)年)が、幼い頃に母を亡くした亡母憧憬を基底とする浪漫と幻想の世界を紡ぎ出した原点は、加賀象嵌の彫金師を父に、能楽師の娘を母として生れ育った、この金沢の地にあるという。

 館長の秋山稔さんは、慶應義塾大学文学部大学院文学研究科卒、現在は金沢学院大学学長だそうだが、学芸員の穴倉玉日(たまき)さんの説明を聴きながら、鏡花生誕150年記念特別展「再現・番町の家」を見る。 泉鏡花の終の棲家・東京の番町の家は、昭和20(1945)年5月の空襲により焼失した。 しかし、自筆原稿を始めとする鏡花の創作活動を示す資料、それらの執筆活動を支えた愛用品の数々は、鏡花没後に遺品等が寄贈された慶應義塾図書館、そして泉家遺族のもとに分蔵され、今に伝えられたのである。

 慶應義塾図書館に寄贈されるについては、水上滝太郎と小泉信三塾長が関係した。 水上滝太郎(阿部章蔵)は、小泉信三の親友で、小泉のとみ夫人は章蔵の妹である。 水上滝太郎は、少年時代から泉鏡花に心酔し、大学部理財科在学中の明治44(1911)年、阿部省三の名で『三田文学』7月号に小説「山の手の子」を執筆して注目を浴び、『昴(すばる)』10月号に水上滝太郎の筆名で戯曲「嵐」を発表した。 水上滝太郎の名は、敬愛する泉鏡花の作中人物から採ったものだった。 このことは、小泉信三の『わが文芸談』(新潮社)の「鏡花と滝太郎」に詳しい。 水上滝太郎は、泉鏡花の書いたすべての作品を、断簡零墨にいたるまで蒐集し、外国に行った不在中は久保田万太郎に頼んでおり、このコレクションが後に泉鏡花の全集を出す時に、役立ったという。 水上は久保田の紹介で鏡花に会い、鏡花も水上という心酔者を知り、水上を主人公にした「芍薬の歌」を書いた。

 水上滝太郎は、泉鏡花の晩年、その擁護者となっていたが、1939(昭和14)年9月7日に鏡花が亡くなると、小泉信三塾長に頼み込んで、その遺品を慶應義塾に寄贈し保管する手配をした。 水上滝太郎はその半年後、翌1940(昭和15)年3月23日に急逝してしまう。 慶應義塾図書館に寄贈された泉鏡花の遺品は、東京大空襲に遭ったが、幸いにも図書館の八角塔から、地下に移されて保管されていたため、難を逃れたのである。

 特別展「再現・番町の家」で、慶應義塾図書館蔵の初代津田左右吉作(歴史学者と別人)「雌蝶雄蝶内裏雛」、鏡花愛用品(兎の置物、潔癖癖のアルコール消毒ケースなど)の展示があり、11月1日からは慶應義塾図書館蔵の鏡花の父・和泉政久作「蘆雁図小柄」、泉鏡花自筆原稿「化鳥」「亀の細工」が展示予定だ。