「たぶの森」と、池田弥三郎さんの「銀座っ子の「東京語批判」」2023/10/26 07:08

 過去に書いたもののうち、三田の「たぶの森」と、池田弥三郎さんの「銀座っ子の「東京語批判」」を紹介したい。

    「たぶの森」の移動と由来の碑<小人閑居日記 2011. 12. 15.>

 10日、折口信夫・池田弥三郎記念講演会が、三田の西校舎527番教室であり、聴きに行った。 まず、この会の事務局をその研究室が務める藤原茂樹教授が「師の声」と題して、折口信夫・池田弥三郎両先生の録音を紹介した。 折口信夫は歌の朗詠、高い声だった。 もはや、藤原教授は、池田弥三郎さんの謦咳に接する事の出来た最後の世代(一年前の)なのだそうだ。

 池田弥三郎さんは、昭和55(1980)年65歳(年譜は67歳、数え年)で慶應を定年退職し、折口信夫先生の記念にと退職金で三田の山の上に80本ほどの「たぶ」を贈り、新設の洗足学園魚津短期大学教授となる。 3月7日、演説館前に「たぶ」を植樹したあと、慶大言語文化研究所の総会で講演した。 寒い、冷たい雨の降る日だったそうで、宵から寒気があり、39度6分の熱、肺炎と診断された。 録音は、その日の慶應での最後の講演で、その一部が紹介された。 内容については、明日書くことにする。

 順調に育っていた池田弥三郎さんの「たぶの森」は、今年完成した南校舎の建替で、大きく様相を一変した。 この日配られた資料にあった藤原茂樹教授の「椨(たぶ)林の移動と釈迢空の歌の発見」(『三田評論』第1125号(2009年7月))によると、2009年5月正門左守衛室奥に28本あった「たぶ」とシラカシの林が間引かれて、選ばれた「たぶ」12本が、すでに桜の季節に移植されていた泰山木と創立百年記念のオリーブの隣に、移された、とある。 藤原教授に教えられて、この日の主講演、神野富一甲南女子大学教授の「海の補陀洛信仰」が始まる前の休憩時間に、西校舎に隣接する南館(ノグチルームのあった第二研究室跡の建物)と演説館の間へ、移植された「たぶ」の木を見に行った。 「たぶの森由来」の碑も、ここに移されていた。

 2008年11月1日の折口信夫・池田弥三郎記念講演会で、文芸評論家の梶木剛さんの「椨(たぶのき)のある風景」を聴いて、11月6日から8日までのこの日記に書いた。 その8日は「「たぶの森由来」の碑」。 ちょうどその日、日吉で慶應義塾創立150年記念式典が行われ、『慶應義塾史事典』が刊行された。 その事典の「「たぶの森由来」の碑」という項目に「昭和六二(一九八七)年折口信夫生誕一〇〇年記念講演会の際に、…除幕された」「この碑は、古代研究に関連してたぶの木に深い関心を寄せた折口を記念するものとして、門下生の池田弥三郎が発案、誕生した。」とあるが、池田弥三郎さんは昭和五七(一九八二)年七月五日に亡くなっているので、「原稿は「この碑は」ではなく、「この森は」になっていたのではないだろうか」と指摘したのだった。 このブログを読んだ、当時『福澤手帖』の原稿のことでやりとりがあった慶應義塾大学出版会の担当者に、メールで指摘のお礼をいわれた覚えがある。

 下記の『慶應義塾史事典』正誤表では、「この碑は」→「このたぶの森は」と、なっている。 http://www.fmc.keio.ac.jp/common/pdf/gijyukujitenseigo201108.pdf

    「江戸がり屋」の「東京語」を批判する<小人閑居日記 2011. 12. 16.>

 さて、録音で聴いた池田弥三郎さんの慶應での最後の講演だが、コピーを資料としてもらった『文藝春秋』昭和55年5月号に「銀座っ子の「東京語批判」」として載り、同年10月刊行の単行本『日本人の心の傾き』(文藝春秋)にも収録された。

 弥三郎さんは、周囲で粋がっている「江戸っ子がってる人」「江戸がる人」を、密かに「江戸がり屋」と呼んで、批判する。 「江戸っ子」、その引き続きとしての「東京っ子」なんてものは、講釈や落語とかの世界だけに棲んでいる概念というか通念としての「江戸っ子」じゃないか、という。

 そういう概念の「江戸っ子」が、言葉の上でも、いろいろ問題を起こしている。 たとえば「べらんめえ」口調、「べらぼうなことだ」とか「そんなべらぼうなことはないよ」とはいったけれど、「なに言ってやんでえ、べらんめえ」なんて言った人間てものは、実際はいなかった。

 芝居なんかで「髪結新三」が残っている「髪結い」、「髪ゆい」というと江戸は「髪いい」だと言われる。 ところが、「髪いい」も、「髪ゆい」も聞いたことがない。 「髪いさん」なんです。 「髪ゆい」といっているつもりが、東京風についなまって、「髪いい」になっている。 「髪いい」なんてことをいって、それが江戸だと思っているのは、「江戸がり屋」の江戸で、ムリなところが目につく。

 地名の「新宿」、「しんじゅく」といわれると、われわれ非常に田舎臭い感じがする。 軽い気持で言っていると「しんじく」と発音する。 だけど「しんじく」であって「しんじゅく」ではないということは、あまり声高に主張はしない。 むしろ「しんじゅく」のつもりなんだけど、私の発音が「しんじく」なんで、初めから「しんじく」とハッキリ言わなきゃ「江戸っ子」でも「東京っ子」でもないって言われると、私どもちょっと抵抗を感じる。

 慶應義塾の「塾」もそう。 戦後、潮田江次塾長時代、慶應義塾をローマ字で表記するのに“Keio-Gijiku”か “Keio-Gijuku”か非常に困って、結局「慶應大学」(“Keio University”)にしたという有名な話がある。 ただ、「塾」という字は、中国の音で「じく」という音があるんだということを聞いたことがある。 ご専門の村松(暎=慶大教授、中国文学)さんが目の前にいるから、それ以上のことはボロが出そうだからやめておきますが…。 福沢先生も「じく」とおっしゃって、書き表わすときも「じく」だったそうだ。 三田を訪ねて来る書生たちが福沢邸の立派な玄関を塾だと間違えて案内を乞うから、「じく→」と書いて貼り出したと(この「じく→」エピソードは「録音」だけ、『文藝春秋』にも『日本人の心の傾き』にもない)、富田正文さんにうかがったことがある。

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