柳家小満んの「犬の字」2023/10/30 07:03

 間違いというものがある。 金杓子屋の清兵衛が亀戸に引っ越して、張り紙をした。 「かなしやくしやのせいべいがかめいどにひつこしまいりそうろう」と仮名で書いたので、「かなしや、くやしや、せいべいが、めいどにまいり、そうろう」と、読まれた。

 明治の頃、深川の八幡様の境内に、白い犬がいた。 差し毛一本ない白犬で、『三世相(さんぜそう)』という書物に、白犬が次の世に人間に生まれ変わる話があると、来る人、来る人がいうので、犬が思いついた。 次の世でなく、この世で人間に生まれ変わろうと、八幡様に三七、二十一日、裸足(はだし)参りをした。 結願の日、提灯退けの時刻、神社から一陣の風が吹き、犬は悶絶、気絶した。 アーーッ、寒い、毛が一本もなくなったよ。 人間になったんだ。 尻尾の感覚がない。 立ったら、素っ裸、気持悪い、イチジクの葉っぱでもないか、アダムのように。 御手洗(みたらし)の手拭を二本ばかり、腰に巻く。 寒い、着物はどうしたらいいんだ。 金は働かなくちゃあない、相談する人がいない。

 夜が明け、鰐口(わにぐち)の音、柏手。 門前町の上総屋、口入屋の旦那だ。 おはようございます、毎度ご贔屓で。 どうした、そんな恰好で。 私は境内にいた白、八幡様に人間になるよう願をかけて、満願、人間の初日で。

 以前、ブラブラ歩いていると、明石町の西洋人の犬、メリーさんがいて、まんざらでもない、横浜へ行ってみないか、という。 活動写真のようだと思っていると、ご主人が、メリー行くぞ、と、行ってしまった。 ボウーッとして歩いていると、閻魔堂橋の所で、野犬狩りの縄がかかった。 助けてくれる人がいて、八幡様の白犬だ、一杯やりなと幾らか出して、助けてくれた。 牛込の米問屋の越後屋さんなんで、恩返しがしたい。 上総屋の旦那が、牛込の越後屋なら弟だ、搗き米など大変だがいいか。 うちのかみさんに会わせる、犬だったのは内緒だから、尻尾など出さないように。 俺の長襦袢を着て、下帯を締めて。 そっちは勝手口だ。 ここの鮭の頭は、塩っけが多いんで。 知り合いなんだが、洲崎で散財をして、博打で素っ裸にされた。 目が澄んで、清らかだ。 名前は只四郎。 士族で。 箸を使って、食べろ。 首を突っ込んじゃ駄目だ。 三尺の帯を締めて、六尺の下帯、くわえて喜んで歩くんじゃない。 何もかも、いっぺんで覚えなさい。 牛込へ行こう。 いきなり駆け出すな。 下駄くわえて出るな。

 牛込矢来下の越後屋に、事情を話すと、置いてって下さい、と。 朝から晩まで、人の何倍も働く。 魚は、骨ばかり食べ、身を分ける、仲間の受けがいい。 二年経った。 よく働く、夜も寝ないので、泥棒猫一匹入ってこない。 あんな奉公人は、初めてだ。 何とかしてやりたい、所帯を持たせてやりたい。 兄さんのところの、おもよさん、内働きの女中さんはどうか。 後で、親御さんに談じ込まれても困る。

 何がいけないんです。 只四郎、元は人間じゃない、八幡様の白だ。 日本橋の野犬狩りで助けた犬なんだ。 『三世相(さんぜそう)』にある通り、どっから見ても立派な人間。 じゃあ、試してみましょう、酒を飲ましてみましょう。 酔っ払って、犬になるかどうか。 仕出し屋から何か取った、お酌させて頂きな。 不調法で。 お前も飲みなさい、命令だ。 互いに酒のやり取り、酩酊する。 飲み過ぎたようで。 誰か、隣の部屋に蒲団を敷いて。 本性を現すかどうか。 大変だよ、犬になってる、よだれを垂らして、大の字になって寝てる。 肩の所に、枕が転がってる。 あれで、犬になってる。