内藤湖南が見抜いた中国の本質とは?2023/11/26 07:38

 内藤湖南、知の巨人が見抜いた中国の本質とは? の問題である。

 明治44(1911)年辛亥革命が起こり、清朝が崩壊へ向かう。 孫文は共和制を宣言し南京に中華民国臨時政府を作るが、北部は袁世凱が軍閥の勢力で支配していた。 国内安定を優先した孫文は、皇帝の退位を条件として、臨時大総統の地位を袁に譲るが、ひとたび権力を握ると袁は革命派を弾圧、革命の成果をなし崩しにしていく。

 湖南は『支那論』で見解を発表する。 近代中国の起源を歴史的に考え、千年さかのぼり、唐 五代 十国、北宋に至り、「唐宋変革論」という学説を出す。 宋代に「君主独裁政治」が確立する。 唐の時代までは、皇帝の力は貴族によって制限されていたが、貴族が没落して、皇帝が絶大な権力を握る。 統治のために置かれた官僚は、税金を集めるだけで権限はなく行政を行わない、任地を転々として金儲けをするばかり、無責任という社会の弊害を生む。 社会の憤懣が溜まるたびに、王朝が交代する。 清朝崩壊も、その延長線上にあった。

 もう一つ、より重要な近代中国の特徴に、「人民の力」があった。 北宋時代の人々の暮らしを描いた《清明上河図》、貨幣経済が行き渡り、平民の暮らしは活気にあふれている、反面、官僚があてにならないため、平民は地縁、血縁、職業組合に頼った。 インフラから、教育、貧困者の救済まで、暮らしのすべてを自力で賄うようになった。

 強大な権力を持つ君主と、自立した平民社会、それが湖南が見抜いた中国社会の本質だった。 湖南は、旧知の仲だった中華民国国務総理の熊希齢(ゆうきれい)に提案する、『支那論』はその助言だった。 歴史の中で培われた自治制の長所を生かせば、目指す共和制の国家に近づけるのではないか、と。

「この自然に発動する流れは、表面の激しい流水の底で、必ず一定の方向に向かって、緩く、重く、鈍く、強く、推し流れているのである。その流れを見るのが、日本の諸問題を解決する鍵である。」(「支那論」)

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