園木覚郎のもとで修業したこと2024/07/31 07:17

 園木覚郎は、無尽流は私で終わり、弟子を取るつもりはない、と言った。 文耕は、弟子にしていただくことは諦めるが、ここにしばらく置いてもらいたい、と頼む。 園木は、文耕が初めて来た時、いつまでも逗留して結構と伝えた、だがあなたは数日で出ていくつもりになっていた、とお見通しで、それをあらためて、なぜと訊く。 文耕は、心の内で、この園木覚郎という人物には、剣客としてだけでなく、人として計り知れない奥深いものがあるような気がする。 その一端に触れたい。 しかし、その思いを、当の相手に言葉にするのは難しく、剣の道を極めたい、さらには強くなりたい、剣客として名を上げたい、と言った。 園木は、剣の道を極めた者など、どこにもいない、剣の道を極めようとする手伝いはできないが、剣客として名を上げようとすることの手助けはできないこともない、と。 文耕は、半ば戸惑ったまま、お願いいたします、ともう一度頭を下げた。

 修業の日々が始まった。 しかし、剣も、木刀も、直心影流のように竹刀を持つこともなかった。 ただ、ひたすら、園木の世話をしている百姓夫婦と共に、農事をするだけの日々が続いた。 周囲に一反ずつの田と畑があり、百姓夫婦の指示に従って、鍬(くわ)を振るい、牛馬の代わりに犂(すき)を牽(ひ)き、種を蒔き、時に鎌を用いて収穫した。 夜は食事のあと、和漢の書物に眼を通すことを勧められた。 園木家には、書物が山のように積まれた一室があった。 二年目に入ると、畑の野菜や雑穀だけでなく、田圃の稲にまつわる作業を手伝うようになった。 夜には、園木が『太平記』や『天草軍記』などの軍書の講義をしてくれるようになった。 同じ『太平記』でも『太平記評判秘伝理尽鈔』などの知識を重ねて読むと、これまでと異なった見方ができることに驚いた。

 だが、その間、園木は、いっさい剣の手ほどきをしてくれなかった。 丸二年が過ぎた秋、稲の脱穀が終わった時、文耕は、意を決して訊ねた。 いつ剣の修業に入らせていただけるのかと。 すると、園木は楽しそうに声を出して笑ってから言った。 「もう、済んでいます」と。 よくわからず、訊ねると、庭で納屋から木刀を一本持ってこさせ、素振りをさせた。 木刀を持つのも二年ぶりだったが、正眼に構え、上段に振りかぶり、真っすぐに振り下ろしたとき、声を出しそうになるほどの衝撃を受けた。 木刀があまりにも軽かったからだ。 木刀がただのものさしのように感じられた。

 あなたは、この二年の間、鍬を振るい、犂を牽き、種を蒔き、苗を植え、雑草を取り、実った穂を刈り、生(な)った野菜の収穫をしてきた、農事に勝る剣の修業など、どこにもないのだ。 百姓たちは食うために、躰を鍛えるというつもりもないまま日々鍛えている、足と腰と胸と腕を、鍬などの農具で、地をしっかりと踏み締め、揺らぐことのない躰を。 ただし、地を踏みしめる勁(つよ)い力は、基本的には受けのためのものでしかない。 攻めのためには疾(はや)さが必要なのだ。 地を蹴って走るような疾さが…。 勁い縦の力で受け、疾い横の動きによって攻める。 あなたは、ここに来たとき、すでにその疾さを備えていた、それは門から入ってきた足の運びでわかった。

 そして、その日以後、これが役に立つことがないように望むがと言い、真剣による戦いにおける危機に際しての身の処し方を、二十一の場合に分けて、一日に一つずつ教えてくれた。 まず、往来で、敵が二人の場合、から。 敵が四人以上だった場合には、隙を見つけて、全力で、逃げろ、というのもあった。 すべて真剣の戦いのためのものだった。 二十一日目に、目潰しなどで視力が一時的に失われたときの対処を伝授してくれたあと、祝いの酒を振る舞ってくれた。

 そして、園木覚郎は「剣で身を立てるなどということは虚しいものです。剣は剣を呼びます。剣は、太平の世といえども、血を求めます。血にまみれる覚悟がないなら、剣で身を立てようなどと考えない方がいいのです」と言った。

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