15年前に「江戸文化の仕掛け人」蔦屋重三郎 ― 2025/02/15 07:04
吉原のことは、長く聴いてきた落語の廓噺で、知っているつもりだったが、知らないことも多いのだった。 大河ドラマ『べらぼう』の第一回「ありがた山の寒がらす」で、吉原の不景気の原因を岡場所の隆盛だと見た蔦重・蔦屋重三郎が、頓智を使って一計を案じ田沼意次に「警動」を頼みに行くのだった。 「警動」は、「怪動」や「傾動」とも書くようだが、2022年からの、沢木耕太郎さんの朝日新聞連載『暦のしずく』を読むまで知らなかった。(深川芸者お六と「怪動」、江戸に戻った文耕の暮らし<小人閑居日記 2024.8.2.>)
蔦重・蔦屋重三郎については、いままでいろいろ書いてきていた。 その最初が、2010(平成22)年12月25日の「等々力短信」第1018号「江戸文化の仕掛け人」だった。 『べらぼう』の第二回「吉原細見『嗚呼御江戸』」の『吉原細見』も出てきた。
等々力短信 第1018号 2010(平成22)年12月25日 江戸文化の仕掛け人
柳家小満んが、先月のTBS落語研究会に「二階ぞめき」をかけた。 「ぞめき」というのは、遊廓をひやかし騒ぎ歩くこと。 吉原は、元和3(げんな・1617)年から40年人形町にあって、今の千束に移ったが、昭和33(1958)年になくなるまで340年間、「アメリカ合衆国」より長い歴史がある、と演ったのには、吹き出してしまった。
蔦屋(つたや)重三郎(1750~97)、通称「蔦重」は、その吉原で生れた。 24,5歳で妓楼や遊女の名などを詳しく記したガイドブック『吉原細見』を出版、飛ぶように売れる。 毎年刊行し、版元として頭角を現す。 時は江戸の中期・安永、戦国の時代ははるかに遠く、百万都市江戸の市民たちは、太平の御代を謳歌していた。 当時の吉原は、知識人が集う文化サロンであり、文化の発信地だった。 蔦重は新吉原大門口の、自らの書店で出版工房でもある「耕書堂」をたまり場とし、狂歌師の大田南畝、戯作者の山東京伝など、その頃屈指の文化人たちと意図的に交流、南畝や京伝の本を出版し、自らも蔦唐丸(つたのからまる)の名で狂歌の会に参加していた。
六本木のサントリー美術館で「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展を見た。 蔦重版『吉原細見』は18.5×12.4センチ、今の新書判より少し大きい位、細かくびっしりと書いてあるので、老眼には読みにくい。 吉原へ行くような連中、昔は特に、目が良かったのだろうなどと、思う。 安永9(1780)年、蔦重の黄表紙出版が始まる。 黄表紙も、同じような大きさだ。 山東京伝は、もともと北尾政演(まさのぶ)という浮世絵師で、22歳の時に文章と挿絵の両方を手がけた黄表紙『御存商売物』のヒットで世に出る。 その天明2(1782)年の暮、京伝は蔦重の招待で、当時人気の戯作者でその後の狂歌ブームを牽引していく四方赤良、朱楽菅江、恋川春町、唐来参和、元木綱といった面々や、さらには師匠の北尾重政、同門の北尾政美(鍬形斎)らと共に、吉原の大文字屋で遊んでいる。
蔦重は当代一流の絵師を起用して、花魁道中など遊女の艶姿や生活の情景を華麗な浮世絵として刊行し、人気を集めた。 京伝・北尾政演の『青楼名君自筆集』、早くからその才能を見込んで家に居候させていた喜多川歌麿の「青楼十二時」シリーズはその成果だ。 蔦重は松平定信の寛政の改革で身上半減の処分を受けるが、「学問ブーム」に乗り単価の高い堅い往来物(初歩の教科書)や稽古本を出したり、歌麿の大首美人絵や写楽や北斎の役者絵を世に送る、アイデアマンだった。
最近のコメント