薩摩焼「白薩摩」の誕生2008/01/10 07:40

 関ヶ原で西軍につき、命からがら逃げ出した島津義弘は、徳川家康に陳謝の かぎりをつくし、家康も薩摩の武力を計算して、長期戦になって他にも抵抗勢 力が出てくることを避けたので、ようやく所領安堵を許された。 苗代川で小 屋を結び、茶碗の類など焼きながらほそぼそと暮していた韓人たちのことが、 少し落ち着いてきた藩主の耳に達した。 経緯(これもいいのだが、略す)が あって、苗代川に土地と屋敷を与え、扶持もつけ、この朴平意を代表とする「朝 鮮筋目の者」たちを武士同様に礼遇することになる。

 天明の頃に許可を得て、ここに入った橘南谿は、一郷みな高麗人なり、朝鮮 の風俗はそのままにして、衣服言語もみな朝鮮人にて、数百家、姓氏は伸、李、 朴、卞(べん)、林、鄭、車、姜、陳、崔、盧、沈、金、白、丁、何、朱の十七 氏、「伸」は元来「申」だったが役人が「サル」と読んだので人べんをつけた、 と書いている。

 かれらが活発な作陶活動を開始すると、島津義弘は異常なほどの肩入れをし、 陶土や釉薬の探索にも協力した。 こうして李朝の白磁に近づけて、皮をでき るだけ薄くした白陶「白薩摩」が生まれた。 義弘はたくさんつくらせて、あ たらしい時代の支配者である徳川将軍家を始め、諸大名にも贈った(幕末、島 津斉彬のカットグラス「薩摩切子」と同じだ)。 「白薩摩」は「薩摩はかつて 武勇で知られた。いまはやきもので知られている」とさえいわれるほどの評判 を得た。 苗代川を藩立工場とした義弘は、薩摩焼の稀少性を保つため、「白薩 摩」は島津家御用以外には焼くことを禁じ、「黒薩摩」(ただし御前黒(ごぜんぐ ろ)を除く)だけは一般の需要に供せられることを許した。 これがいよいよ「白 薩摩」の評判を高くした。