福沢の論説から今を考える2008/01/14 08:29

 「尚商立国論」の明治23年は、前年の凶作を契機として、富山を皮切りに 米騒動が頻発し、明治最初の経済恐慌が起った年で、その中でこの論説は書か れた。 「尚商」は、武を重んじる「尚武」からの福沢の造語で、鎖国の時代 の「尚武立国」から、開国後は商売によって国を富まして、その富によって国 事を経営し、政治に、軍事に、文事に、外交にあたる「尚商立国」の道を進む べきだとした。 そのためには官尊民卑を改めないと、商売の発達が望めない とする。 「独立自尊」という言葉は、「尚商立国論」のここで、初めて使われ たという。 清原武彦さんは、今日の官僚支配の弊害、政官界システムの機能 不全に話を進め、官僚の強すぎること、民が官に頼りすぎる個々の弱さ、官僚 のレベル劣化(たとえば厚生行政)などに触れた。 問題は民のサイドにもあ るとして、ジャーナリズムの劣化に言及した。

 福沢は「明治十年 丁丑公論」で、西郷の行動を政府の専制、横暴への抵抗と 見て、弁護し、一国の公平のために、公論と名づけたと、書いた。 西郷を無 私の人、天下の人物といい、他日この人物を用いるの時もあるはずと惜しみ、 西郷を死地に陥らしめた政府の措置に憤慨した。 清原さんは「丁丑公論」か ら、福沢の論説について三点を挙げた。 (1)世論の振幅に惑わされず、公 平に論説した論者である。 世論をチェックする機能、そのバランス感覚に、 マスコミは学ぶべきだ。 (2)何者をも恐れぬ舌鋒の鋭さ。 だが『自伝』 にも書いているが、批判は相手の面前で言えることを書く、とも言った。 (3) 国(国権、国益)とは何か、そこで果す個人の役割は何か、を論じた。 『瘠 我慢の説』の冒頭に「立国は私なり、公に非(あら)ざるなり」と書き、瘠我慢 の主義は私情ではあるが、目的である国益の維持には必要な美徳であるとした。

 清原さんは最後に、創立150年の事業は、一にかかって品性、品格のある人 材の育成だとして、福沢が明治29年11月1日に慶應義塾懐旧会で演説した慶 應義塾の目的「気品の泉源、智徳の模範」を、心に刻むべきだと述べた。