新春詠・一日一句2008/01/06 07:54

 元旦の朝日新聞に、朝日俳壇の選者の新春詠が載っていた。

くしゃみしてにわかに高揚の時間     金子 兜太

太箸や人の心の太々と          長谷川 櫂

買初の画集の表紙やはらかし       大串 章

一歩より始まる百歩去年今年       稲畑 汀子

 元日から散歩に出た。 ほとんど、歩いている人がいない。 犬も、いない。  散歩に連れて行ってもらうのは、いつもより遅い時間になるのだろう。 ヒヨ ドリだけが、騒いでいる。 一句を得た。

  元朝の慶びを鵯(ひよ)鳴き交はす

そうだ、一歩より始めよう、まず一日一句から、と思った。 それで、二日。  大学ラグビー、慶明戦は秋の対抗戦もナイスゲームだったが、この試合はさら によかった。

  百五十年慶應が勝つ二日かな

 三日、家内の弟一家が来て、いつものとおりの時間が流れる。

  吉例の寿司食ひに出る三日かな

 四日、散歩に出ると丁度日の出で、中東の国旗のような上弦の月と明けの明 星が美しい。

  淑気満ち東雲に月尖りたる

 五日、明け方、へんな夢を見た。 回るテーブルで中華料理を食べているの だが、向こう側に一人しか座っていなくて、その人が、というより、そのお方 が昭和天皇なのだ。 良い夢か、悪い夢か、わからない。 悪い夢なら、獏(ば く)に食わせてしまえ、と昔は枕の下に獏の絵を敷いていたので、初夢を獏枕と もいうそうだ。

  昭和天皇(せんてい)と中華食つてる獏枕

  ここまで書いておいたら、小林恭二さんの句会で知り合った東大俳句出身の 俳人から賀状が届いて、「一日十句をやっております」と添書きしてあった。 ぎ ゃふん。

「日記」の空白を読む2008/01/07 07:49

 友達というものは、鋭いものである。 年賀状の中に、「<等々力短信><小 人閑居日記>いつも楽しみです。ですけれど、他人には見せない心の内の日記 は、もう一つ何か書いているのですか」というのがあった。 この一言が、け っこう応えて、ひっかかっている。 昔、数を書いている内に、正体があらわ れて、「男のストリップになる」と書いたことがある。 なかなか、そうもいか ないものか。 もっとも、ブログに書けないことは、たしかにある。

 萩原延壽さんの「評伝」についての講演で、杉山伸也さんは、資料を「読み 解く」「読みこなす」ことについて、「日記」の場合、記述していない、空白の 部分を読まねばならない、と言った(アーネスト・サトウの場合、手紙が破棄 されたらしいこと、日記に「O・K・」と書かれた日本女性の問題があった。→ <等々力短信 第432号>)。 萩原さんは「読み取り、読み抜き、読み破る」 と言い、資料を読んで、ずっと考え、背景に思いを馳せる、資料を熟成させて いく、姿勢を貫いていたそうだ。

 ノーテンキな私の場合、そんな深いものはないので、ご安心の上、「読み飛ば して」ください。 ハハハ。

大河ドラマ『篤姫』始まる2008/01/08 07:48

 大河ドラマ『篤姫』の第一回を見た。 何といっても、幕末は、面白い。 物 語は、天保6(1835)年6月、本家嫡男・島津斉彬(高橋英樹)が分家の一つ、 伊集院郷苗代川の今和泉島津家(当主島津忠剛(長塚京三))にやってくるとこ ろから始まった。 同級生で先日、落語研究会にご一緒した伊集院郁哉君は、 鹿児島に父上の墓がある由だったが、島津家との関係は、どうなのだろう(メ ールモード)。 それと「苗代川」を語りの奈良岡朋子は「なえしろがわ」と読 んでいたが、司馬遼太郎さんの『故郷忘じがたく候』では「なえしろこ」とな っていた記憶がある。

 その天保6(1835)年、10月14日に喜入領主・肝付兼善(榎木孝明)の三 男・尚五郎(のちの小松帯刀)(瑛太)、12月19日に今和泉島津家に於一(お かつ、のちの篤姫・天璋院)(宮崎(立に可)あおい)が誕生することから、物語 は展開する。 1835年の1月10日に、福沢諭吉が誕生しているから、同じ年 かと思ったら、篤姫の於一の12月16日は西暦だと1836年2月5日らしい。  まあ、ほぼ同年の生れである。 於一が指宿山川港でモリソン号を見た天保 8(1837)年7月には、諭吉は父を亡くして大坂から帰郷、もう九州中津をちょ ろちょろ歩いていただろう。 大河ドラマでこの時代をやるなら、今さら言っ ても遅いが、『篤姫』よりも、福沢でやってもらいたかった。 ずっと、大きな 物語になるはずなのに…。

 それはともかく、アフラックのCMで爽やかな印象を持っていた宮崎あおい、 第一回はガラに合っていたが、48歳で死ぬまでを、どう演じるのか、興味深い ところだ。 於一の子役をやった二人の内、大きいほうの子が好演、宮崎あお いにそっくりなのには驚いた。 よく似ている子を探してくるものだ。 英明 といわれた島津斉彬に、高橋英樹というのは、どうだろう。 クイズ番組で見 たせいもあるが…。

「苗代川」は「ノシロコ」と呼ばれていた2008/01/09 08:04

 「故郷忘じがたく候」を読むために『司馬遼太郎全集29』(文藝春秋)を、 図書館で借りてきた。 結論をいえば「苗代川」は、普通「なえしろがわ」と 読むらしいが、江戸時代は「ノシロコ」と言っていたことが、出て来る。 「な えしろこ」ではなかったけれど、私の「こ」の記憶は、半分正しかった。 だ が、漠然とは憶えているつもりだった物語の細部は、ほとんど忘れていて、再 読、あらためて感動したのであった。 まだの方には短編なので、一度、お読 みになることをおすすめする。

「ノシロコ」は、二箇所に出てくる。 一つは江戸時代、天明の頃の医師で 旅行家の橘南谿(たちばな・なんけい)が、この地を訪問した時の記録である。  もう一つは、薩摩の人がここの地名を「ノシロコ」と言うが、川がないのに川 の地名があるのはよくわからない、地下水にも乏しく、井戸を掘っても容易に 水脈にあたらないなどの条件のために、太古以来ひとがすまなかったのであろ う、という江戸期の役人の留書をもとにした記述である。

慶長2(1597)年、豊臣秀吉の朝鮮出兵での南原(ナモン)城の戦いに参加 した薩摩の島津義弘が、朝鮮の陶工を捕虜にした。 茶道の隆盛で珍重された 陶磁器を、焼く技術が薩摩にはなかったからだ。 秀吉が死んで、和議の後、 撤退することになったが、それは敗走ともいえる混乱の中での帰国だった。 ど う来たものか、朝鮮の陶工たちは、薩摩の地に流れ着いたが、ほとんど遺棄状 態に置かれた。 彼等がようやくたどりつき、なだらかな丘陵と雑木の多さが 「故山ニ似タリ」として、居所に決めたのが、ここ「苗代川」だったのである。  現在は美山(みやま)という。 「故郷忘じがたく候」に描かれる沈寿官(ち んじゅかん)窯の所在地は、日置市東市来町美山である。

薩摩焼「白薩摩」の誕生2008/01/10 07:40

 関ヶ原で西軍につき、命からがら逃げ出した島津義弘は、徳川家康に陳謝の かぎりをつくし、家康も薩摩の武力を計算して、長期戦になって他にも抵抗勢 力が出てくることを避けたので、ようやく所領安堵を許された。 苗代川で小 屋を結び、茶碗の類など焼きながらほそぼそと暮していた韓人たちのことが、 少し落ち着いてきた藩主の耳に達した。 経緯(これもいいのだが、略す)が あって、苗代川に土地と屋敷を与え、扶持もつけ、この朴平意を代表とする「朝 鮮筋目の者」たちを武士同様に礼遇することになる。

 天明の頃に許可を得て、ここに入った橘南谿は、一郷みな高麗人なり、朝鮮 の風俗はそのままにして、衣服言語もみな朝鮮人にて、数百家、姓氏は伸、李、 朴、卞(べん)、林、鄭、車、姜、陳、崔、盧、沈、金、白、丁、何、朱の十七 氏、「伸」は元来「申」だったが役人が「サル」と読んだので人べんをつけた、 と書いている。

 かれらが活発な作陶活動を開始すると、島津義弘は異常なほどの肩入れをし、 陶土や釉薬の探索にも協力した。 こうして李朝の白磁に近づけて、皮をでき るだけ薄くした白陶「白薩摩」が生まれた。 義弘はたくさんつくらせて、あ たらしい時代の支配者である徳川将軍家を始め、諸大名にも贈った(幕末、島 津斉彬のカットグラス「薩摩切子」と同じだ)。 「白薩摩」は「薩摩はかつて 武勇で知られた。いまはやきもので知られている」とさえいわれるほどの評判 を得た。 苗代川を藩立工場とした義弘は、薩摩焼の稀少性を保つため、「白薩 摩」は島津家御用以外には焼くことを禁じ、「黒薩摩」(ただし御前黒(ごぜんぐ ろ)を除く)だけは一般の需要に供せられることを許した。 これがいよいよ「白 薩摩」の評判を高くした。