「軟ドーダ」第一号、成島柳北『柳橋新誌』2008/02/12 08:30

 鹿島茂さんは、ドーダを文学史に適用するに当たって、新たにサブ・ジャン ルの対概念をつけ加える。 「硬ドーダ」と「軟ドーダ」、「純ドーダ」と「雑 ドーダ」だ。 「人間いかに生きるべきか」「あるいは、人生にあいかかわると は何ぞや」といった真面目で硬い主題にプラスの価値を見ようとするのが「硬 ドーダ」、色恋沙汰や恋愛など、主として感情やセックスなどの柔らかいテーマ にプラスの価値を求めるのが「軟ドーダ」。 混じり気のないピュアなものにあ こがれるのが「純ドーダ」で、猥雑であればあるほど面白いのとするのが「雑 ドーダ」。

 『一冊の本』2月号「軟ドーダとは何か?」で、成島柳北『柳橋新誌』が日 本近代文学の「軟ドーダ」第一号とされる。 鹿島さんは定説に反して、『柳橋 新誌』二編よりも、初編の方がおもしろいという。 「柳橋の妓、其の粧飾淡 にして趣きあり。其の意気爽にして媚びず。世俗謂はゆる、神田上水を飲む江 戸児の気象なる者にして、深川の余風を存するなり」「柳橋の妓は、芸を売る者 なり。女郎にあらざるなり」 柳橋は、量といい質といい、歌妓(芸者)中心 の盛り場で、まさに、この歌妓という存在によって、ナンバーワンの盛り場に 躍り出たというのだ。 「遊ばせるけれど、原則」「睡」ない芸者をいかに「転 (ころば)す」か、そこに双方に擬似恋愛感情が発生した。 鹿島さんは、戦後 の恋愛解禁に至るまで、日本文学における「恋愛」は、一方の当事者である女 性が、歌妓(芸者)およびその後継者に限定されていた、とする。 「軟ドー ダ」とは、こうした擬似恋愛におけるゲーム的力量の自慢である、という。