「三田文学」の「伝統」2009/12/21 08:22

 14日、第689回三田演説会があり、坂上弘さん(作家・三田文学会理事長) の「荷風・瀧太郎の「三田文学」―明年「三田文学」創刊百年を迎えるにあた って―」という話を聴いてきた。 坂上弘さんは、昭和35(1960)年慶應義 塾大学文学部の卒業、現在のリコーに入り、平成7(1995)年まで勤めた後、 慶應義塾大学出版会社長になった。 「三田文学」、これほど長く続いている文 芸誌はない、唯一だろう、商業誌では「新潮」があるが…。 山あり、壁あり、 苦悩の跡はあるけれど、基調は爽やかだった。 ここは作品が生れる現場であ り、新鮮な無垢なものを育てる、神の作業を手伝うようなところがある、と坂 上さんは始めた。

戦後10年を過ぎた頃の学生時代、山川方夫、田久保英夫、桂芳久が編集担 当の「三田文学」の銀座並木通りの日本鉱業会館ビルにあった机一つの事務所 に出入りしていた。 編集委員は、内村直也、北原武夫、佐藤朔、戸板康二、 丸岡明、村野四郎、山本健吉の七人の侍、編集発行人は奥野信太郎だった。 そ こには若い人を育てようとする温かい雰囲気があり、文学は人を拒まぬと感じ た、という。 大学2年、19歳の時、晴天霹靂で芥川賞候補になったり(「息 子と恋人」、受賞は遠藤周作「白い人」)して、ほとんど「三田文学」のインサ イダーとして育ったそうだ。 出雲橋のはせ川や、はち巻岡田で、ご馳走にも なった。

 「三田文学」の「伝統」は誰が作ったか、というのが講演のテーマだった。  その「伝統」とは、どういうものか。 山川方夫は「三田文学」は伝統的に公 器だと言っていて、三田以外の書き手を半分混ぜるようにしていた。 新人育 成を目指し、新人の作品を名のある人の間に抱きこむように掲載していた。 事 務所や会議では、人の悪口を言っていても気品があった。 どこかから光が流 れ込んでいるようだった。 独立採算という建前を堅持し、そこには異端の気 概のようなものがあって、反抗的少年であった坂上さんに合ったという。