五島慶太の東京高速鉄道常務就任まで2012/12/01 06:49

 門野重九郎の東京高速鉄道による東京市の持つ地下鉄免許線の代行建設出願 は、早川徳次の阻止工作のためもあったか、却下された。 しかし東京高速鉄 道はその後も、執拗に地下鉄代行建設を画策した。 再度の出願に当っては、 早川の恩人根津嘉一郎を間に入れ、東京地下鉄道の役員全員を発起人に加え、 開通後は東京地下鉄道と合併する地下鉄会社一本化構想、60年後の市への施設 の無償提供、市からの資金援助などの前提条件を添えて、早川を納得させた。  だが、この出願も東京市は「あくまで市で建設・経営する」と却下した。

 翌1928(昭和3)年2月、東京市の財政危機を見透かし、市からの資金援助 を削除して行なった三度目の出願が、1930(昭和5)年暮になって許可される。  門野重九郎の五年間にわたる執拗な譲り受け運動は、早川や根津の協力もあっ て、ようやく実現したのである。 翌年末、東京市と東京高速鉄道の間で結ば れた仮契約書には、重要なことが含まれていた。 「代行建設」でなく「免許 権の譲渡」、七年以内の全路線の建設完了、一年以内(1933年9月まで)に、資本金三千万円以上の会社を設立すること、東京市はいつでも会社の事業を買 収できること。 会社が設立できなければ、免許権は自動的に東京市に戻るこ とになるから、門野らは鉄道省に働きかけ、会社の設立期限を一年延長するこ とに成功した。 東京高速鉄道が二回の却下にもかかわらず、出願に固執した のは、大倉組が地下鉄建設で稼ぎたかっただけでなく、経営参加している小田 原急行鉄道、京王電気軌道など各鉄道会社の「『円内』(山手線の内側)に乗 り入れたい」という悲願があったためだ。 それまで、市内交通市営主義(「市 営モンロー主義」とも言う)と軍事上の理由で、出来なかったからである。

 門野らは会社設立の資金集めに奔走した。 親しい第一生命社長矢野恒太に 相談すると、東京横浜電鉄に五島慶太という凄腕の専務がいる、五島が計画に 見通しがあると判断し、会社の設立に参加すると約束するなら、資金協力して もよい、と言う。 他の鉄道経営者と同じように、山手線の内側、都心進出の 夢を持つ五島は、二つ返事で承諾した。

 1934(昭和9)年9月、五島が加わった東京高速鉄道は、資本金三千万円を ようやく集めて、免許期限ギリギリで会社設立に漕ぎ着けた。  しかし、役員人事に、東京地下鉄道からは社長の根津嘉一郎(東武鉄道社長 の肩書)が取締役に就任しただけで、実質的な責任者である早川徳次の名がな かった。 新顔の五島慶太が常務取締役に選任されていた。  「等々力短信」に書いた、早川徳次と五島慶太の攻防が始まった。

「営団」から東京地下鉄株式会社へ2012/12/02 08:13

 そうだ、と思いついて、大学の同級生で帝都高速度交通営団(現・東京地下 鉄株式会社、愛称「東京メトロ))に勤めていたT君に、「等々力短信」第1041 号「「地下鉄の父」早川徳次」を送った。 喜んで長い電話をかけてきて、いろ いろと教えてもらうことができた。

 まず、短信ではスペースがなくて書けなかった、戦時体制という問題だ。 東 京地下鉄道、東京高速鉄道両社の帝都高速度交通営団への譲渡には、「地下鉄 の国営化を目論む」という側面に加えて、戦争(日中戦争)遂行のための統制 管理目的があったのだ。 『広辞苑』の【営団】は「(経営財団の意)第二次 大戦中、戦時経済の運営の必要から、国家的統制の下に公益事業を行うものと して設けられた特殊法人。」と解説し、「→【営団地下鉄】」とある。 『百 科事典マイペディア』の【営団】は、「公共的事業経営のための特殊な企業形 態。政府が全額または半額以上を出資し、理事機関を任命、特別の監督と保護 助成を行う。1941-1943年ころ公共的事業の国家統制を目的として住宅営団、 食糧営団、農地開発営団など多数設立された。最後までのこった帝都高速度交 通営団も2004年東京地下鉄株式会社(通称は東京メトロ)に改組・改称され た。」

 T君は「営団」設立の特別法を「プロジェクト法」だと言った。 「帝都高 速度交通営団法」で、その運営が規定されていた。 「公法上の法人」で、商 法の法人とは異なる。 終戦後、GHQの指令で、他のほとんどの営団は解体 されたが、帝都高速度交通営団はその運営が戦争目的ではないと認められ、存 続された。 このため新線建設の資金調達などに関しては、特別会計の財政投 融資(簡保資金など)が活用され、公団に近い形で運営が行われてきた。

 戦後は、日本国有鉄道(国鉄分割民営化以降は日本政府)と東京都が出資す る特殊法人という位置づけにあったが、行政改革の一環として、1986(昭和61) 年6月10日の臨時行政改革推進審議会の答申で、営団地下鉄民営化の基本方 針が打ち出された。 2002(平成14)年12月18日に東京地下鉄株式会社法 が公布され、2004(平成16)年4月1日に東京地下鉄株式会社となった。 株 式会社化後も、引き続き出資比率は政府(財務大臣名義)53.42%、東京都46.58% となっている。 株式上場することを目標にしているが、「できる限り早期」 と、時期を明言していない状態にある。

 T君は、鉄道や航空などの旅客輸送事業は、膨大な資本を必要とする装置産 業で、かつ労働集約的なので、本来、公共事業としての性格を持っている。 配 当を目的に利益を上げる株式会社とは、相容れない面があると言う。 安全運 転(航)を第一に考えると、採算性や合理化ばかり考える経営では心配だと言 うのである。

福沢の実業思想、金儲けより公の利益2012/12/03 06:41

1日、福澤諭吉協会の土曜セミナーで、平野隆慶應義塾大学商学部教授の「福 澤諭吉の実業思想と門下生の企業者活動」を聴いた。 それが昨日書いた、T 君の鉄道事業の公共性と株式会社の配当のための利益追求が相容れないという 意見と通じるものがあった。 それで、落語の話を書く予定を変更して、先に 書いておくことにした。

平野隆教授の専門は、近現代日本の産業史・経営史、特に商工会議所など経 済団体の通商情報活動、チェーンストアなど小売業の発展と消費文化の変容な どの研究をなさっているそうだ。 福澤諭吉研究センター副所長でもある。

福沢は日本近代の経営史においても、重要な人物の一人である。 「会社」 の概念を紹介した最も初めの一つは、『西洋事情 初編』(1866(慶應2)年)で 「商人会社」を解説している。 その特徴は(1)共同出資、(2)財務情報の 公開、(3)資本金の株式への細分化(出資者に配当(「利息」と言っているが)、 利潤多ければ増配)、(4)株式の自由売買。 福沢は紹介だけでなく、自身で 実施した。 福沢屋諭吉の名で出版業を手掛け(慶應義塾大学出版会につなが る)、時事新報を経営した。 オーガナイザーとしては、丸善(丸屋商社)や横 浜正金銀行にかかわった。 「丸屋商社の記」(1869(明治2)年)は、福沢が 書いたと思われるが、元金社中と働(き)社中に分けているのは、所有と経営 の分離の実践である。

 福沢の「会社」の適用範囲と目的。 学校、新聞、病院など非営利的組織に も「会社」概念を適用している。 「芝新銭座慶應義塾之記」(慶應4年)に は、「慶應義塾会社」とあり、「入社帳」や「社中」もここから来ている。

 『尚商立国論』(1890(明治23)年)「尚」=尊ぶ、ビジネス全般を尊重し て国を立てる論。 商(ビジネス)を卑しむ社会的風潮から、有為の人材がビ ジネスに入らない。 金銭目的(お金儲け・利益)の経営を批判して、会社の 目的は公益だとする。 官尊民卑打破の必要性を主張した。 『実業論』(1893 (明治26)年)では、実業の発展の遅れを憂慮し、新時代の実業の担い手とし て「士流学者」を考える。 「士流学者」とは、福沢の実業思想のキーワード で、いわば知的エリート(知識人)、士(さむらい)の精神つまり公を思う心(公 益心)と、新しい教育を受けた知識の両方を併せ持つ。

 重ねて言えば、会社にとって、営利は手段であって目的ではない、追求すべ き目的は、公の利益である、というのが福沢の実業思想の核心だと、平野隆教 授は前半を結論した。

財閥の改革者、三井の中上川と三菱の荘田2012/12/04 06:52

 平野隆教授は土曜セミナーの後半、「門下生の企業者活動」で、四人を取り上 げた。 財閥の改革者としての、三井の中上川彦次郎と三菱の荘田平五郎、デ パートとその文化を社会に広めた高橋義雄と日比翁助である。

 中上川彦次郎(1854(安政元)~1901(明治34))は、福沢の甥で英国留学 中に井上馨の知遇を得て、その引きで山陽鉄道社長から三井銀行の立て直しに 入る。 中上川の三井改革は、(1)不良債権(政商として関連の)の整理、(2) 官金取扱いの辞退→官依存のビジネスからの脱却、(3)金融・商業偏重→多角 化(工業化)…工業部を作り、鐘紡、東芝、王子製紙、三池炭鉱などを買収、 育てる。(4)学卒者の採用。

 中上川は、植民地化の不安もあった後発国日本にとって、多方面で近代企業 を確立する必要があるが、個別に財力、人材を持っている企業がない、財閥は それが出来る存在であり、多角化はいわば国家的プロジェクトで、国家的利益 (公益)にとって大切と考えていた節がある。 しかし、三井家同族や三井物 産の益田孝は面白くなく、中上川は孤立し、権限を取り上げられ、志半ばで1901 (明治34)年10月福沢の後を追うように48歳で亡くなる。 その蒔いた種 は無駄にならず、死後、各社はトップ企業となって花を咲かす。 (4)中上 川時代の主な三井入行者は、藤山雷太(大日本製糖社長)、小林一三(阪急・東 宝社長、商工相)、和田豊治(富士紡社長)、武藤山治(鐘紡社長、実業同志会)、 池田成彬(日銀総裁、蔵相)、藤原銀次郎(王子製紙社長、商工相)、日比翁助 (三越専務)。

 荘田平五郎(1847(弘化4)~1922(大正11))は、慶應義塾で教師をした 後、福沢の推薦で三菱商会に入った。 荘田の三菱改革は、(1)社則(会社規 則)の制定…「丸屋商社の記」を参考に、(2)洋式簿記の導入(『帳合之法』)、 (3)多角化の推進、海運から保険・倉庫・金融と進む(東京海上保険、明治 生命、三菱倉庫、高島炭坑、第百十九銀行(三菱銀行になる))、(4)長崎造船 所=近代造船業の確立(三菱重工業)、(5)丸の内オフィス街の建設。

 福沢のいう「士流学者」としての中上川と荘田。 共に士流・公益心から出 た日本全体的な見地に立っていた。 荘田は個人的利益に頓着せず、事業資金 (三菱合資)に回していた。 中上川は失意の晩年、荘田は成功の晩年(退職 後12年76歳で死去)だったが、中上川には独断専行、上から目線の所があり、 荘田は冷静沈着で、岩崎弥太郎の姪と結婚してもいた。 財閥の性格も、三井 は保守的で、三菱は新興財閥として新しい事業に貪欲だった。

高橋義雄と日比翁助、三井呉服店を三越デパートに2012/12/05 06:50

 高橋義雄(1861(文久元)~1937(昭和12))は水戸藩士の四男、福沢が 1881(明治14)年新聞発行を見込んで旧知の茨城師範学校長松木直己に文章 のうまい学生の推薦を頼み、初の奨学生として、石河幹明、渡辺治、井坂直幹 と共に慶應義塾に入る。 約束通り、時事新報に入るが、実業家への転身を決 意し、1887(明治20)年渡米、イーストマン商業学校で学び、アメリカ各地 の商業を視察、フィラデルフィアのデパートに感心する。 井上馨により三井 銀行に入り、大阪支店長として初の女子行員を採用した。 1895(明治28) 年経営が悪化していた三井呉服店理事に就任し、改革に乗り出す。

 高橋義雄は呉服店からデパートへ、小売業における革新を先導する。 (1) 大福帳から洋式簿記へ、(2)慶應義塾出身者など学卒者の採用、(3)流行の創 出…パリでモードに出合っていた高橋は「意匠(デザイン)部」を創設し、新 進の画家を起用し、着物の柄(元禄模様・新橋芸者に着せ、元禄音頭なども作 り、日露戦勝時で大流行)やポスターを描かせた、(4)番頭とお得意様の「座 売り」から、一見客も可のシヨーケース「陳列販売」へ、東京本店の2階全部 を陳列場に改装。 (2)や(4)は旧来の番頭たちとの軋轢もあった。

 日比翁助(1860(万延元)~1931(昭和6))は、久留米藩士の次男、慶應 義塾に学び、麻布天文台、福沢推薦のモスリン商会支配人を経て、1897(明治 30)年中上川の招きで三井銀行和歌山支店支配人、翌年三井呉服店支配人に抜 擢され、高橋義雄と共に改革に取り組む。 1904(明治37)年、合名会社三 井呉服店は株式会社三越呉服店に改組、欧米流のデパートを目指す「デパート メントストア宣言」を発表し、日比は専務取締役に就任。 「学俗協同」(「俗」 はビジネス)を掲げ、学識経験者にビジネスチャンスの意見を聴き、三越を通 して社会に広めて行くため、巌谷小波、新渡戸稲造、黒田清輝、森鴎外など著 名文化人による流行研究会「流行会」を組織した。 児童(こども)博覧会(新 しい時代の親子関係の啓蒙)、美術展の開催、西洋音楽の演奏会、三越少年音楽 隊(店員)、洋風生活様式の紹介するなど、ビジネスの成果を社会に還元する、 文化・啓蒙機関としてのデパートを志向した。

 高橋義雄と日比翁助は、デパート経営を通じて、一般国民の文化の近代化を 目指した。 日比翁助の言葉「翁助不肖なりと雖も福澤門下の一人である。福 澤門下の一人たる翁助が三百年来の老舗を経営して一時繁昌を致すのみであつ ては、親しく薫陶を受けた福澤先生や中上川彦次郎氏に対して地下に合はす顔 がない。そこで結局三越呉服店は唯儲けた丈ではいかぬ。儲ける傍ら客の便利 を図らねばならぬ。儲けて客の便利を図ると云ふ丈ではいかぬ。儲けて客の便 利を図る傍ら永遠的国家的観念を以て経営して国家に貢献する所がなければな らぬのである。」(日比『商売繁盛の秘訣』125頁)