平治改メ桂文治「掛取り」のマクラ2012/12/12 06:33

 この日は、談志の一周忌追善だけではなく、披露目中に師匠円菊を喪った菊 六改メ古今亭文菊と、平治改メ桂文治の襲名後初の落語研究会でもあった。 文 治は、黒紋付き袴なしで出た。 先代は伸治が長かった十代目文治、背が1メ ートルほど、8年前に死んだ、歌丸師匠に一服盛られて…(馬場注・ちょうど 落語芸術協会会長の任期が切れる1月31日に死んで、歌丸が現会長)、出囃子 は「月の武蔵のという」『武蔵名月』、実は落語協会では円菊もこれを使ってい た、どちらも強情で変えない、二人で十情、円菊は東十条、ふたり同じ寄席に 出ることがあると、早く来る。 師匠は江戸っ子だから、俺は『武蔵名月』、あ いつは静岡の島田だから『ちゃっきり節』でいいんだ、と言っていた。

 学校寄席へ出かけることがある。 小学校の中学年、千人に一人も、大人に なって寄席に来てくれればいいと、鮭の養殖のようなもの。 反応の返ってく るのが、いい学校、生徒が音も立てないで入ってくるような学校は、最後まで 静か。 農業―バイオテクノロジー、工業―技術を学んでいるような学校は、 目の色が違う。 車座になって山賊の宴会状態、何か飛んで来る。 師匠は、 学校寄席はやらなかった。 晩年になって、同級生が校長になり定年になると いうので頼まれて出かけた。 私と小文治がお供をして、船橋に行った。 私 が「牛ほめ」をやるというと、「与太郎の噺をしてどうすんだ」と怒る、それで 「転失気」をやった。 小文治は「寿限無」。 すると、師匠は「牛ほめ」をや った。 「牛ほめ」をやるつもりだったことは、弟子にも言わないで、外堀を 埋めた、大坂夏の陣だ。

 5年間師匠の所に内弟子に入っていて、暮は大掃除のあと、手拭を折る。 反 物二本、よく切れる裁ち鋏で切り、たとう(畳)紙を糊付けして、包む。 厚 紙を入れて、「文治」のハンコウを押す、これがなかなか乾かない。 年賀状の 宛名を、私とウダンジ(?)が書いた、すると、行き着かないのが返って来る。  と、大晦日「掛取り」の噺になる。