高橋義雄と日比翁助、三井呉服店を三越デパートに2012/12/05 06:50

 高橋義雄(1861(文久元)~1937(昭和12))は水戸藩士の四男、福沢が 1881(明治14)年新聞発行を見込んで旧知の茨城師範学校長松木直己に文章 のうまい学生の推薦を頼み、初の奨学生として、石河幹明、渡辺治、井坂直幹 と共に慶應義塾に入る。 約束通り、時事新報に入るが、実業家への転身を決 意し、1887(明治20)年渡米、イーストマン商業学校で学び、アメリカ各地 の商業を視察、フィラデルフィアのデパートに感心する。 井上馨により三井 銀行に入り、大阪支店長として初の女子行員を採用した。 1895(明治28) 年経営が悪化していた三井呉服店理事に就任し、改革に乗り出す。

 高橋義雄は呉服店からデパートへ、小売業における革新を先導する。 (1) 大福帳から洋式簿記へ、(2)慶應義塾出身者など学卒者の採用、(3)流行の創 出…パリでモードに出合っていた高橋は「意匠(デザイン)部」を創設し、新 進の画家を起用し、着物の柄(元禄模様・新橋芸者に着せ、元禄音頭なども作 り、日露戦勝時で大流行)やポスターを描かせた、(4)番頭とお得意様の「座 売り」から、一見客も可のシヨーケース「陳列販売」へ、東京本店の2階全部 を陳列場に改装。 (2)や(4)は旧来の番頭たちとの軋轢もあった。

 日比翁助(1860(万延元)~1931(昭和6))は、久留米藩士の次男、慶應 義塾に学び、麻布天文台、福沢推薦のモスリン商会支配人を経て、1897(明治 30)年中上川の招きで三井銀行和歌山支店支配人、翌年三井呉服店支配人に抜 擢され、高橋義雄と共に改革に取り組む。 1904(明治37)年、合名会社三 井呉服店は株式会社三越呉服店に改組、欧米流のデパートを目指す「デパート メントストア宣言」を発表し、日比は専務取締役に就任。 「学俗協同」(「俗」 はビジネス)を掲げ、学識経験者にビジネスチャンスの意見を聴き、三越を通 して社会に広めて行くため、巌谷小波、新渡戸稲造、黒田清輝、森鴎外など著 名文化人による流行研究会「流行会」を組織した。 児童(こども)博覧会(新 しい時代の親子関係の啓蒙)、美術展の開催、西洋音楽の演奏会、三越少年音楽 隊(店員)、洋風生活様式の紹介するなど、ビジネスの成果を社会に還元する、 文化・啓蒙機関としてのデパートを志向した。

 高橋義雄と日比翁助は、デパート経営を通じて、一般国民の文化の近代化を 目指した。 日比翁助の言葉「翁助不肖なりと雖も福澤門下の一人である。福 澤門下の一人たる翁助が三百年来の老舗を経営して一時繁昌を致すのみであつ ては、親しく薫陶を受けた福澤先生や中上川彦次郎氏に対して地下に合はす顔 がない。そこで結局三越呉服店は唯儲けた丈ではいかぬ。儲ける傍ら客の便利 を図らねばならぬ。儲けて客の便利を図ると云ふ丈ではいかぬ。儲けて客の便 利を図る傍ら永遠的国家的観念を以て経営して国家に貢献する所がなければな らぬのである。」(日比『商売繁盛の秘訣』125頁)

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