その後の「重箱」、わがご縁2013/03/07 06:49

 昔、おやじの御厄介になった水産試験所の先生の紹介で、「真島組」の勝見さ んという人から、軽井沢のゴルフ場の近くに、東京で有名な喰いものやの店を そろえたいという話がくる。 ウナギは「重箱」にかぎるといわれて、弁天山 の「若菜ずし」の千公(弁天山美家古寿司だろうか)をさそって、一けん、ふ た世帯の店を一ト夏だした。 結果は「若菜ずし」ばかり忙しくて、さんざん だったが、いままで、みたことも、聞いたこともなかったような毛並の人間に いろいろでッくわして、東京ッてものが、もッと大きく、日本ッてものが、は じめて分ったような気がした。 世間をみる目をあけてもらった。

 東京に帰るとすぐ、「真島組」から熱海に土地があって無償で提供するので、 支店をださないか、という。 新規まき直し、見世のだしかえ。 まさに、そ の時節、到来……と、東京の店を、そっくり、熱海に移すことにした。

 十何年かにわたる熱海時代がはじまる。 熱海へ来て、おふくろもみ送った。  むすめにも養子をとった。 「わたしには、お店のことはわかりませんから… …」といっていた、おわかが、震災からこッち……というよりも、おれが登美 代でしくじってからこッち、自分からさきへ立って、ずんずん、店をとり仕切 るようになったのだ。 熱海へ来てからは、一層それにカセがかかり、おれは、 もう、ただ、聟どのと助手の職人とのあいだに挾まって、台所でマゴマゴさえ してれば、それでいいことになったのだ。 おれの望みは、もう一度、東京へ 帰りたい……東京へ帰って、商売がしたいということだけ……この一二年、お れは、そればッかり考えている。

 久保田万太郎が「火事息子」を『オール読物』に連載したのは、昭和31(1956) 年9月からだそうだ。 赤坂「重箱」のホームページを見ると、赤坂の地に移 ったのは昭和30(1955)年、その際六代目(五代目ではない)はきれいな井 戸が湧く場所でなければ、鰻屋として生業が立たないと譲らなかったとある。  現在の店主、大谷晋一郎さんは八代目だそうだ。 挨拶に「晴れの日、特別な 方との語らいに、日常とは違う空間で少しばかりの贅沢を楽しむ鰻屋が「重箱」 です。」「すっきりした江戸文化を楽しみ、大人が楽しむ鰻屋としてお見知りお き下さい。」 55,6年、そんなに長く、赤坂にあるのに、まったくご縁がなか った。 それはひとえに「お中食13,650円、お夕食17,850円、コースのみ」、 料亭風、六部屋の個室だけ、こちらが子供からすぐ老人になってしまい、大人 にならなかった、せいだろう。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック