服部「ネ豊」次郎さん「お別れの会」の三弔辞2013/03/01 06:35

 服部「ネ豊」次郎さんに、2月26日、三田の西校舎ホールで開かれた慶應関 係の「お別れの会」で、家内と一緒にお別れをしてきた。 慶應連合三田会、 福澤諭吉協会、慶應倶楽部の主催。 この種の会では珍しく、塾歌斉唱で始ま る。 弔辞はお三方、清家篤塾長(連合三田会名誉会長)、西室泰三慶應義塾評 議員会議長、鳥居泰彦慶應義塾学事顧問(元塾長)だった。

 清家塾長は「巨星墜つ」として、服部さんが慶應義塾のために評議員(1964 年~2006年)、理事(1970年~1982年および1986年~2006年)、監事(1982 年~1986年)を歴任、この間とくに湘南藤沢キャンパス(SFC)の開設に尽力 されたこと、慶應連合三田会会長として国内外の三田会を束ね、入院の直前に も徳島(11月25日・四国連合三田会)、入院前日福井(12月1日・北陸三県 連合三田会)の連合三田会に出席され、お会いした、その生涯の日々が三田会 とともにあったと述べた。 また各地の三田会で、その地の慶應義塾出身の人々 や福沢諭吉についての博識は、会員を驚かし、自分も1月10日の福澤先生誕 生記念会で服部さんに教えられた「学者は国の奴雁なり」を引用した。 服部 さんを喪ったことは、慶應義塾と連合三田会にとって大きな痛手である。 天 国よりお見守りを、と。

 西室さんは、1月24日に服部さんを乗せた霊柩車が三田の山を巡ったことに ふれ、1か月経っても、敬愛する大先輩を失った悲しみは癒えない。 服部さ んは、慶應社中一致の要であった、慶應に学んだ者が生涯睦み合い、支え合う 風土に磨きをかける仕事をした。 東日本大震災後、いち早く東北各地の三田 会を通じ支援に尽力、弘前に塾旗を贈った心配りは忘れがたい。 福沢関係の 史料の蒐集にも努め、福沢門下生たち、慶應にとって大切な人物の研究を、現 地に足を運んで調査するなど、福沢研究に大きな貢献があり、病気になっても 福澤研究センターにFAXで連絡があった。

 鳥居さんは、服部さんが社中連帯と、その社会的なひろがりに、貢献したと した。 連合三田会の法人化に尽した。 交詢社では、福沢の意に沿う、それ を体現する中心となる人物が必要で、新しい時代を束ねた。 福澤諭吉協会で は、後輩の研究が思考の固定化に陥ることのないよう、心を砕いた。 世界経 済調査会では、平成5(1993)年から会長を務め、日本の道しるべとなった。  台湾にも心を砕き、日台の外交窓口となる交流協会会長を18年の長きにわた って務め、ピザなし渡航、運転免許証の相互承認、航空直行便が実現した。 服 部さんは、こうしたいろいろな社会的使命を、私たちに引き継いで、天に召さ れた。

服部真二さんの謝辞2013/03/02 06:34

服部「ネ豊」次郎さん「お別れの会」での、甥にあたる服部真二セイコーホ ールディングス株式会社代表取締役会長兼グループCEOの謝辞。

「ネ豊」次郎さんは、昨年4月に体調不良を訴え入院、血液のがんとわかり、 抗がん剤での治療を開始、持前の明るさと前向きの姿勢で、9月には退院した。  1か月半リハビリに努め、10月21日の連合三田会大会に出席、塾長の弔辞に あった四国、北陸の三田会、秋の園遊会にも出た。 12月初旬、再入院、もう 体力、気力がなくなっていた。

叔父・甥、上司・部下、先輩・後輩、の関係だった。 人好きで、人と楽し く話して輪を広げた。 35年前のある雑誌で、趣味を訊かれ、「人と話す事」 と一行で答えていた。 生粋の江戸っ子で、歌舞伎と相撲が好き、あんぱんが 好物だった。 茶目っ気があり、人を和ませるところがあった。 愛していた のは、一番が妻・悦子様、二番目が皆様・慶應の方々、尊敬していたのは、一 番が福沢先生、二番目が(祖父で)創業者の金太郎だった。 先を見抜く力が あった。 こういう体験がある。 2003,4年頃、これからの時計産業について 模索していた時、電話があり「電波時計です」と言ってガチャンと切った。 社 内一体となって方向を定め、現在は4割が電波時計になっている。

慶應に始まり、慶應に終わった、幸せな92年間だった。 長寿は、皆様に 与えられた元気と喜びのゆえだ。 あの笑顔は忘れられない。

ワグネル・ソサイエティー男性合唱団の「丘の上」の献奏があり、献花とな った。

(閑居老人の蛇足、言わずもがなの余計なお世話だが、勇気をふるい、敢え て書いておく。 この服部真二さんの謝辞、身内に敬称・敬語を遣ったのに違 和感を持った。 銀座は服部時計店の向かい、天金の出の池田弥三郎さんの顔 が浮かぶ。 27日、テレビで団十郎の本葬のニュースを見ていたら、海老蔵が 謝辞で「父から“頂いた”この身体」と述べたのを、字幕は「父から“もらっ た”この身体」としていた。)

万太郎の『火事息子』、「重箱」と山谷(さんや)2013/03/03 07:24

昨年暮の落語研究会で、柳家さん喬の「火事息子」を聴いた。 それで久保 田万太郎の『火事息子』を読んでみる気になった。 積ん読本、もう本文の上 端が茶色くなった昭和50(1975)年の中公文庫、薄いけれど定価はたった200 円だった。 同じ「火事息子」でも、落語とは違う物語だ。 この小説に好き な落語の題名を借りたのは、万太郎の機智であると、戸板康二は解説に書いて いる。

万太郎の『火事息子』は、江戸時代、文化文政の創業で、今は赤坂にある鰻 屋「重箱」鮒屋儀兵衛の五代目主人の明治・大正・昭和にわたる一代記である。  小説では小山清次郎となっている五代目は、本名・大谷平次郎、万太郎とは〈竹 馬やいろはにほへとちりぢりに〉の竹馬の友、浅草小学校の同級生で、級長だ った。 「万ちゃん」「平ちゃん」と呼び合う仲で、山谷の「重箱」の裏の四五 十坪の空地に、器械体操の「鉄棒」が出来たので、大ぜいの遊び仲間を誘って、 大ぶりだの、中ぶりだの、海老上りだのを練習に行った、と昭和4(1929)年 『中央公論』に書いた随筆「続吉原附近」にあるそうだ。 そこには「明治四 十四年の吉原大火以前のこのうちの、生野暮な、大まかな、広さにして三四倍 の嵩(かさ)をもっていた時分がわたしには可懐しい」ともあるという。 そ の「吉原大火」で「重箱」が焼け、二年前の暮から国府台の野砲十六聯隊に入 営していた小山上等兵の、その再建に働いて両親に認められるあたりが、「火事 息子」という所以である。

山谷といっても、一般には馴染みがないだろう。 吉原に隣接していて、落 語には、山谷堀とか、堀とかで、登場する。 「あくび指南」で「堀に上がっ て一杯やって、吉原(なか)へでも行って、粋な遊びの一つでもしてこようか」 という「堀」である。 柳橋から、舟で大川を上り、山谷堀へ上がって、土手 八丁を行くのが、吉原へのルートの一つだった。

北村一夫さんの『落語地名辞典』(現代教養文庫)を参照してみよう。 吉原 の入口あたりからの下流を呼ぶ山谷堀は、音無川(石神井用水)の末で、根岸 お行(ぎょう)の松(台東区根岸4丁目)から三の輪へ出、日本堤の外側を東 に流れて、台東区今戸1丁目と浅草7丁目の間で隅田川に落ちる。 河口には、 船宿がたくさんあった。 吉原の仮宅(かりたく・火事で焼けて復旧するまで の臨時の廓)がおかれたこともあり、妓楼が復旧して吉原にもどったあとも、 女たちが住みついて岡場所になり、花街ができた。 ここの芸者を“堀の芸者” といい、江戸一番の鉄火できこえた。 山谷堀の河口、大川から入って今戸橋 をくぐってすぐの左側を、俗に“出尻”(でっちり)といい、ここに十八軒の船 宿があった。 料亭も八百善はじめ多くの名のある店があった(その一つが「重 箱」だ)。 南畝太田蜀山人の狂歌に〈詩は詩仏書は米庵に狂歌乃公(おれ) 芸 妓小万に料理八百善〉というのがある。 この小万は初代、十六のとき船宿武 蔵屋から座敷に出、その憂いをふくむ美貌と、酒が入ったときに出る巻舌の火 のような啖呵で、当時第一といわれた。 この小万の気風には、酒癖の悪い武 芸自慢の侍も、大名も大商人も兜をぬいだ。 逆立ちと役者狂いで名を売った 小万は三代目である。 客席でみせる芸はもっぱら逆立ち、座敷着の裾さばき を一同ハラハラしながら喜んで見物したという。

江戸から明治へ、「重箱」の四代2013/03/04 06:42

 「おれのところの先祖ッてものは、相州厚木の在の造り酒屋の二男坊で、名 まえを儀平といったというんだが、それが、いつのまにか、儀兵衛になった。 ……儀兵衛のほうが、一応、もッともらしく聞えるからだろうナ。」 「この人 が、手のつけられない道楽もので、みごと家(うち)を勘当され、しょうこと なしに、あてもなく江戸に来たものだ。」 「いまをさる百何十年まえ、文化と か、文政とかいった時分のことだ……」 軽子(かるこ・いまでいう軽運送) になったが、稼ぎは知れてる、さきの見込だってない。 「そこで、千住にあ った鮒屋新兵衛という川魚問屋に住みこんだ。安全な主人もちになったッてわ けだ。……で、ちゃんと、無事に何年かつとめ上げて、やがて暖簾をわけても らい、大橋の近くに、メソッコうなぎを焼いてうる屋台店をだした。……のが、 鮒儀こと鮒屋儀兵衛というもののこの世に生れでたそもそもで、その後、また、 何年か相立ち申したとき、浅草の山谷に、野放しどうようになった地面をみつ け、それを安く買って、いまでいう食堂だ、入れごみの、気の張らない、手が る一式の、鯉こくとうなぎめしの店をはじめたとおぼしめせ、だ。/これが、 当った。」という調子で、久保田万太郎の『火事息子』は始まる。 五代目小山 清次郎のひとり語りだ。 その地面うちに、「重箱稲荷」というお宮があった。

 初代に子供がなく、養子にきた紀州さまの落し胤という二代目は、その縁で 紀州家御用となって、一度は金ができた。 上方見物に出かけて、大阪でいい 庭石をみつけてしこたま買い込み、「紀州家御用」をふりかざして、船に積んで 品川までもって来たという。 だが初代の丹精した身上に、どうも、大分、穴 をあけたらしい。

三代目も養子、味醂で有名な下総の流山の名主の何番目かの息子で、真剣に 商売に取組み、その証拠には、一説に「鮒儀」の代りに、客のほうで勝手に呼 び出した「重箱」を店の看板にしたさりゃく(作略)の持主だったという。 そ の頃には、三百坪あまりの広い庭だけでも、江戸市中のどこへ出してもみッと もなくないだけの貫録をもった料理屋になっていた。

 三代目は、ひとり娘に徳次郎という自分の甥をめ合せ、やがて、四代目にし た。 「のが、つまり、後におれの親父になったわけの人なんだが、この人ッ てものが、大した気楽人でね。……とにかく、商売そッちのけに、鰻の雌雄を 発見したりして、水産講習所の嘱託になったッて位のものなんだから……」  「そういう気楽人じゃァあったが、庖丁をもたしたら、しかし、東京のうなぎ や仲間に、肩を並べるものがいないといわれた位の名人だった。」「仕事となる と、まるで人間がかわったように、ただもう、ムキになって、下手に話しかけ でもしようものなら、それこそ、目のたまのとびでるほど呶鳴られた。」「その 親父に、おれは、小学校の高等二年(年にして、まだ十三四)のときから、店 を手伝わされた。」

“万梅”のおしげさんの“万梅”2013/03/05 06:32

 明治44年4月9日の、その日は日曜日だった。 野砲十六聯隊の小山清次 郎上等兵は前日から休暇をもらっていて、ホコリ臭い軍服を、小ざッぱりした 双子の上下(うえした)の仕立下ろしに着かえ、観音さまをかこつけに、浅草 公園の五けん茶屋、土地では、とくに立てて“五けんさん”といった、その一 軒“万梅”の小座敷でおしげさんという女中を相手に、一週間目の酒を、チビ、 チビ、たのしんでいた。 実は、このおしげさんに、すこし話がある、こんど の日曜に、何とか都合をして、是非きてくれ……という手紙をもらっていたの だ。 清次郎は、前から、おしげさんが好きだった。 だから、日曜になるの を待ち兼ねて、朝っぱらから、胸をわくわくさせながら、“万梅”に来たのだっ た。 そこへ、吉原が火事だという知らせが入る。 電話をしてもらったら、 「重箱」が出ない。

 脱線して、後戻りするが、久保田万太郎は、五けん茶屋と“万梅”のところ で、こんなことを言っている。 “万梅”、「はじめは、仲見世の、仁王門寄り の右っ側にあったが、後には、公園の中の、“花やしき”の近くに移った。しず かな、オットリした、品のいい、それでて、料理といったら、おなじ“五けん さん”の、草津でも、一直(いちなお)でも、松島でも、大金亭は鳥一式だっ たからべつとして、とてもその真似はできないといわれたほどの、結構な、申 し分のない店だった。たとえば、いまの……と例をひいていいたくっても、残 念ながら、そういう心意気を……ホンノリしたものをもった店は、いまの東京 にはどッこにもない。……それを思うと、ほんとにかわったよ、東京ッてとこ ろは。……何んのことはない、植民地だよ、いまの東京は。……でなくって、 お前、こんなに、いまのように、大阪料理のむやみに幅をするわけがないじゃ ァねえか……」