二度全焼した山谷「重箱」2013/03/06 06:38

 「重箱」は全焼、それでも隊に帰ると、お上は二週間の休暇をくれ、清次郎 は再建のための借金その他に駆けずり回る。 10月、なんとか建前を済ませて、 4月のあの日以来の“万梅”へ行った。 おかみさんがでて来て、「しまッた」 という気が、ヒョイと、した。 おしげさんは、止めていた。

 その年の暮、店の本普請の出来上りと除隊がうまくぶつかったのは、うれし かった。 待っていたのは縁談で、おやじとおふくろとが見立ててくれた二十 一になるカタギのむすめと、結婚した。 でも二年とたたないうち、産後のヒ ダチがわるく、赤ん坊もろとも、あの世に行ってしまった。 当座、一ト月ほ ど、まったくのフヌケ、おもいだしては泣き、いいだしては泣き、だった。

 一周忌を境に、また縁談、浅草鳥越の大きな米屋のむすめ、“鳥越小町”とい われた位の器量よしで、二三年まえ、下谷の質屋に嫁に行き、半年とたたない うちに亭主が死に、そのまま実家(さと)へ帰っていた。 男まさりの、大へ んサッパリした性分で、見合をして気に入ったら、先方が断ってきた。 みッ ともないが、惚れました、という奴で、そこを何卒と、二度めの結婚をしたの が、いまのかみさんの、おわか、だ。

 三年経って、ヒョックリ女の子が生れた。 おれのタガがゆるんで、“公園” (浅草の花柳界)の登美代という、三つ下の二十七の女に惚れて、夢中になっ て入り揚げた。 太り肉(じし)で銀杏返しのよく似合う、洋食好き。 歌舞 伎座でやった、一中ぶしの家元の大浚いの、衣裳万端、当日の諸掛り一切三百 二十円の小切手が銀行で不渡りになる。 借金取が、追ッとり刀で押し寄せた。  おわかに言われて、ひとり東京をはなれ、浜松の兵隊友だちのところに、厄介 になっていると、9月1日の関東大震災が起こった。 山谷は焼野原、店の焼 けあとに葭簀ッ張をこしらえ、おわかと二人、鳥越から通って、スイトンを売 り始めた。 (昨年暮に書いた水上瀧太郎の『銀座復興』の「はち巻岡田」を 思い出す。)

 まがりなりにも店のできたのは、翌年の春だった。 震災まえの、三分の一 にもたりない、バラックどうぜんのみるかげもない安普請だった。 だが、山 谷という土地が、震災を境に、以前とはまるッきりかわってしまっていた。 む かしは、山谷と吉原は車の両輪だった。 それは明治37、8年、日露戦争の時 分までで消え、その後はてんでんばらばら、吉原は、ああいう、じれったい、 ざッかけないところになってしまった。 山谷のほうはまだ、江戸のかげを曳 いた、むかしのゆめが、夜明けの星のひかりのようにまだ残っていた、しずか な、しっとりした、いまどき、めずらしい町だった。 そのわが町、おれの育 った町が、カサカサに枯れて、山谷といえば「八百善」、「重箱」と切ってもき れない、その「八百善」が山谷をふり捨てて、東京におどりだした。

その後の「重箱」、わがご縁2013/03/07 06:49

 昔、おやじの御厄介になった水産試験所の先生の紹介で、「真島組」の勝見さ んという人から、軽井沢のゴルフ場の近くに、東京で有名な喰いものやの店を そろえたいという話がくる。 ウナギは「重箱」にかぎるといわれて、弁天山 の「若菜ずし」の千公(弁天山美家古寿司だろうか)をさそって、一けん、ふ た世帯の店を一ト夏だした。 結果は「若菜ずし」ばかり忙しくて、さんざん だったが、いままで、みたことも、聞いたこともなかったような毛並の人間に いろいろでッくわして、東京ッてものが、もッと大きく、日本ッてものが、は じめて分ったような気がした。 世間をみる目をあけてもらった。

 東京に帰るとすぐ、「真島組」から熱海に土地があって無償で提供するので、 支店をださないか、という。 新規まき直し、見世のだしかえ。 まさに、そ の時節、到来……と、東京の店を、そっくり、熱海に移すことにした。

 十何年かにわたる熱海時代がはじまる。 熱海へ来て、おふくろもみ送った。  むすめにも養子をとった。 「わたしには、お店のことはわかりませんから… …」といっていた、おわかが、震災からこッち……というよりも、おれが登美 代でしくじってからこッち、自分からさきへ立って、ずんずん、店をとり仕切 るようになったのだ。 熱海へ来てからは、一層それにカセがかかり、おれは、 もう、ただ、聟どのと助手の職人とのあいだに挾まって、台所でマゴマゴさえ してれば、それでいいことになったのだ。 おれの望みは、もう一度、東京へ 帰りたい……東京へ帰って、商売がしたいということだけ……この一二年、お れは、そればッかり考えている。

 久保田万太郎が「火事息子」を『オール読物』に連載したのは、昭和31(1956) 年9月からだそうだ。 赤坂「重箱」のホームページを見ると、赤坂の地に移 ったのは昭和30(1955)年、その際六代目(五代目ではない)はきれいな井 戸が湧く場所でなければ、鰻屋として生業が立たないと譲らなかったとある。  現在の店主、大谷晋一郎さんは八代目だそうだ。 挨拶に「晴れの日、特別な 方との語らいに、日常とは違う空間で少しばかりの贅沢を楽しむ鰻屋が「重箱」 です。」「すっきりした江戸文化を楽しみ、大人が楽しむ鰻屋としてお見知りお き下さい。」 55,6年、そんなに長く、赤坂にあるのに、まったくご縁がなか った。 それはひとえに「お中食13,650円、お夕食17,850円、コースのみ」、 料亭風、六部屋の個室だけ、こちらが子供からすぐ老人になってしまい、大人 にならなかった、せいだろう。

『銀座百点』700号「百点句会」「銀座俳句」2013/03/08 06:46

 『銀座百点』が、3月号で700号になった。 昭和30(1955)年1月の創 刊、その前年に銀座の老舗の旦那衆が銀座百店会をつくった、と現理事長で壹 番館洋服店の渡邊明治さんの「ごあいさつ」にある。

 「恒例 百点句会」が載っていて、「銀座俳句」選者の高橋睦郎さんが「百点 句会いまむかし」を書いている。 その冒頭「一九六二年に九州から上京した 私は、前年銀座三原橋に創立された日本デザインセンターなる広告プロダクシ ョンにアルバイターとしてもぐり込んだ。翌年本採用になって二年、同じく銀 座並木通り四丁目にある広告プロダクション、サン・アドに移り、合わせて二 十二年間、広告界に籍を置いた。サン・アドはその間、京橋に、つづいて大手 町に移転したが、いずれも銀座周辺。成長小説ふうにいえば、田舎からぽっと 出の私の青臭い感受性を育ててくれたのは銀座であり、銀座文化だった、とい うことになる。」とある。  高橋睦郎さんが広告界の人だったことを、私は知 らなかった。 「サン・アド」については先日、山口瞳さんの年譜を見て記憶 していた。 山口さんは「江分利満氏の優雅な生活」で直木賞を受賞した翌年 の1964(昭和39)年、国立に移住し、サントリー宣伝部を退社、「山崎隆夫、 開高健、柳原良平、坂根進、酒井睦雄らとともに、広告制作会社・株式会社サ ン・アドを設立、取締役に就任」した。 高橋睦郎さんが入ったのは、その翌 年だろうか。 1964(昭和39)年は、私が学校を出て銀行の銀座支店に配属 され、集金のカバンを下げて銀座をウロウロしていた年だ。 サン・アドが並 木通り四丁目にあったと知って、山口瞳さんと「フジヤマツムラ」の接点がわ かった、私はフジヤマツムラさんに集金に行っていたからだ。

 兼題に「御慶」、席題に「春の雪」、「小沢昭一さん追悼」があった「恒例 百 点句会」では、作家の三田完さんが一等賞になっている。 <百点を七百たび の御慶かな><しぐるるやどこか遠くでハーモニカ><春の雪丸型ポストに丸 い帽子>。 三田完さんとは、志木高同窓会の句会「枇杷の会」でご一緒する ことがあり、俳誌『夏潮』に連載された『歌は季につれ』は、明後日、幻戯書 房から出版される。 「近くて遠き唄の記憶、初エッセイ集、<昭和の歌>を 手がかりに日本人のこころと季節のうつろいを綴り、俳句とつなぐ」と刊行案 内にある。 装画を担当した宇野亜喜良さんは700号に「聞き書き佐野繁次郎」 を書いている。 佐野繁次郎は『銀座百点』の昔のロゴタイプ(デザイン文字) (http://www.kurageshorin.com/ginza.html)、セントメリー靴店や化粧品のパ ピリオの字を描いた人という。 宇野亜喜良さんは、60年代に何と上記「日本 デザインセンター」にデザイナーとして勤務していた。 原弘、亀倉雄策、山 城隆一という人たちの設立した会社で、亀倉さんに佐野さんのイラストレーシ ョンの描き方を聞いたという。

 「銀座俳句」の「銀座の句」の佳作に、飯島ミチさんの<文化の日餡ぱん買 うて帰りけり>があった。 2月17日の『夏潮』新年句会で<友どち来る旧正 月をしにと来る>、最高齢で主宰特選をとられた飯島ミチさんだと思う。

「銀座の句」から思い出す“銀座”2013/03/09 06:46

 『銀座百点』700号「銀座俳句」の「銀座の句」から、思い出した“銀座” を書いておく。

夏柳むかし銀座に露店出て    田口節子

亡きひとのひよいと露地裏銀座秋 長屋璃子

 「銀座百点」の編集部はかつて「白牡丹」ビルの四階にあったと、瀬戸内寂 聴さんの「銀座とわたし」にある。 編集責任者は車谷弘さんだったという。 「白牡丹」で思い出すのは、1964(昭和39)年銀座の銀行に入った初月給で 母に草履を買ったことである。 初任給は21,000円。 「白牡丹」の草履は 高価で、母は気の毒に思ったのだろう、半分でいいと言う。 私は草履の片っ 方を買った。

 銀座の記憶は、家の古いアルバムにあった若い両親の「街頭写真」に始まる。 白い夏服の若い父は、颯爽としていた。 戦後、今の和光や松屋は接収されて まだPX(post exchange売店・酒保)で、銀座通りには進駐軍の品物を売る露 店が並んでいた子供の頃、母に連れられてよく銀座に買物に来た。 小松スト アや「くのや」にも行ったが、「白牡丹」の並びのコックドールや月ヶ瀬、立田 野の小倉アイス、円筒状のアイスクリームをチョコレートでコーティングした アイス・スマック、一本裏の「大三元」という中華料理店など、食べ物のほう が記憶にある。

日劇の角に星空ありし頃     市川恵美子

煤逃げや銀座三越教文館     佐野永子

 五つ上の兄には、よく連れられて映画を観に銀座に来た。 スバル座、有楽 座、日比谷映画劇場、日劇、日劇地下、ピカデリー、東劇、全線座、テアトル 銀座。 スイスではなくて、キッチン・ナンシーだったか、並木通りの洋食屋 で食べたハヤシライスの味が忘れられない。 カウンターに高島忠夫さんが来 て、店の人に大声で関西学院の話をしていた。

恋はよく歩きましたね銀座初夏  吉田かずや(◆一句◆)

星逢ひの契りを銀座四丁目    越石一彦

 入行した銀行の銀座支店は、日軽金のビル、いまのリクルートのビルにあっ た。 支店長が慶應の先輩で、いきなり得意先係に配属され、毎日銀座の表裏 を鞄を下げてウロウロすることになった。 得意先係は課長始め若い集団で、 慶應一年上のNさん(後のN証券社長)もいた。 みんなで新橋のガード下の 安キャバレーに行ったら、翌日支店長に「馬場さんも連れて行ったのか。汚ら しい所へ行くんじゃない」と叱られた。 取引先の壹番館洋服店の外商部門で、 揃いの夏ズボンをつくってもらったりもした。 支店長は当時まだ珍しかった ブラウンの電気カミソリを使っていて、修理で先輩が和光へ使いに行ったこと もある。 使いといえば、頭取の使いで川辺るみ子さんのバー・エスポワール へお祝いを届けたこともあった。 実は転勤で半年しかいなかったその支店に、 のちに我が家にずっーーといることになるひとがいたのである。

「あなた、いい学校に行きなさいよ。」2013/03/10 07:38

 ゼミナールで教えて頂いた故小尾恵一郎先生の奥様、小尾芙佐さんは英米文 学の翻訳家である。 ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』、アーシ ュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』『言の葉の樹』、アイザック・アシモフの 『われはロボット』『神々自身』、スティーヴン・キングの『IT』など沢山の翻 訳があり、近年は光文社古典新訳文庫でシャーロット・ブロンテの『ジェイン・ エア』や、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』を訳されて、八十代にな られてもお仕事に勤しんでいらっしゃる。 鎌倉文学館で現在開かれている「ミ ステリー作家 翻訳家」展(4月21日まで)に「鎌倉に“現存”する翻訳家は わたし一人ということで、展示室のはしっこのほうに、ちょこっと紹介されて います」というお手紙と、玉稿「『高慢と偏見』の新訳」の載った『鎌倉ペンク ラブ』No.8 2013.1を送って下さった。

 その『鎌倉ペンクラブ』に、新入会員の橋出たよりさん、フィクションライ ターという肩書の方が「いいひとたちに会えるから」という一文を寄せていた。  小学六年生になったばかりの春、近所のおばちゃまが、「なぎさホテル」でテー ブルマナーを教えてくださった。 その時、「あなた、いい学校に行きなさいよ。 いいひとたちに会えるから」と言われて、わくわくしたというのである。 私 はその言葉に感心し、小尾芙佐さんへのお礼のハガキに、「小尾先生に出会い、 よい仲間に恵まれ、こういう嬉しいお便りを頂ける訳です」と、書いた。

 昔、桑原三郎先生に昭和22(1947)年から31(1956)年まで幼稚舎長を務 めた吉田小五郎さんの『幼稚舎家族』という本を頂いた。 吉田小五郎さんの 七回忌にあたり、平成元(1989)年7月に同書刊行委員会が刊行した遺稿集だ。  この本の索引には「よい学校」「慶応義塾に学んだ仕合せ」「古くて新しい学校 (最古最新)」「和(和を以て貴しとする)」「和して同ぜず」「我が道をゆく」「紳 士(紳士道)」「人生(人生の送り方)」といった不思議な項目がある。 索引を つけたのも、こうした項目を設けたのも、編集の中心になった桑原三郎先生の お考えだと思う。

 「よい学校」の本文二か所を引く。 63頁「私はよい学校に欠くことの出来 ない一つの大きな条件として、その学校で良い友達を得られるかどうかという ことを考えている。その点について、幼稚舎は小学校として天下に類の少い学 校の一つだと信じている。私は同窓会の年々歳々盛になつてゆくことを祈るも のである。」(「無題 六」昭和25年9月)

 94頁「或る学校に入るということは、勿論その学校で勉強することが第一義 であるが、同時にその学校の雰囲気にひたり、その学校でなければ得られぬ友 を得るということである。/日本にも学校は多い。又たゞ良い学校というもの なら沢山あろう。我が慶応義塾を他の学校に比べ、冷静に判断すれば、何をも つとも誇りとするのであろう。学問の系譜か設備か、私はそのいづれかに於て も我が義塾が日本一とする勇気がない。然し、慶応義塾の卒業生が一度塾を離 れて、私(ひそ)かに学生時代を追懐し、塾を出てよかつたと思う心の強いこ と、これだけは日本広しといえども他に類例を見ないところであろう。実に社 中の結束、我が義塾の卒業生に比ぶべきものはない。」(「幼稚舎学生同窓会結成 を慶ぶ」昭和26年12月)