「慶応義塾に学んだ仕合せ」と、「それは愛よ」2013/03/11 06:50

 吉田小五郎さんの『幼稚舎家族』の索引から、「慶応義塾に学んだ仕合せ」も 引いてみよう。 三つあり、一つは昨日の94頁だった。

 78頁「私は諸君がいつか、福沢先生の書かれたものを自ら読む日の来ること をのぞんでいる。若し諸君が福沢先生にじかにふれたら、諸君はおどろき、そ の先生がおたてになつた慶応義塾に学んだことを心から仕合せに思うだろう。 福沢先生は、生れおちるより骨太の子だつたというが、それより私のいう背骨 のしつかりした人であつた。」(「わかき友へ―卒業生におくる―」昭和26年3 月)

 22 7頁「私は常にいつている。慶応義塾は不思議な学校である。義塾を卒業 した者はどこの学校の卒業生がその母校を愛するよりも慶応を出たことの仕合 せを思う。残念ながらどの点を比べて見ても他の学校より義塾がぐんとよいと いう訳には行かない。然し個々の比較を越えて慶応がただ懐しく理窟なしに無 性に良いと思うのである。それは勿論百年の今日まで、福沢先生の精神が生き ているからといえよう。先生の精神というと人はすぐ「独立自尊」を持ちだす であろうが、私は近頃小泉(信三)先生の文章を読んで胸をつかれたことがあ る。先生が臨終に近いお姉様の病中を見舞われ、福沢先生の偉大さは何処にあ つたかと思うかとの問に対し、お姉様は言下に「それは愛よ」と答えられたそ うである。それは今日迄福沢先生について余り聞かれなかつた言葉である。然 し私はこの言葉の深さを想わない訳には行かない。」(「義塾創立百年祭を終っ て」昭和33年12月)

桑原三郎先生に『愛の一字―父親 福沢諭吉を読む』(築地書館・1998(平成 10)年)という本がある。 この本のもとになった福澤諭吉協会の読書会には、 私も参加させて頂いた。 桑原先生は、「福沢家の全璧の家風が何に由るかとい うと、先生の言葉の「愛の一字」に尽きると思います。両親への敬愛と、お子 さん方への気品ある愛情、これこそ人の子として、また人の親として最も大切 にすべきことなのです」として、福沢のアメリカ留学中の長男一太郎宛の明治 20年7月18日付の手紙(書簡番号1187・『福澤諭吉書簡集』第五巻)から、 この本の題名を選ばれた。 その書簡は、世話になっている医師ヨングハンス の厳しさと束縛に不満を訴えた一太郎を叱責したもので、終りに「拙者が貴様 に対し愛の一字は徹頭徹尾拙者の目を瞑するまで変化せざるものと知るべし」 とある。

吉田小五郎さんの「人生の送り方」2013/03/12 06:47

 吉田小五郎さんの「人生(人生の送り方)」も、紹介しておこう。 116頁(ラッシュアウアー通勤の大変さを書いたあとで)「私は上野毛から天 現寺まで、一切人の先になることを避け、ゆつくり後から後からと心がけて学 校へ通つてくる。ところが学校へ着いて見ると、私は先生の中で大抵いつも二 番目か三番目になつている。つまり早い方なのである。私の人生の送り方が、 若し万事このようであつたらと思う。/私は明年一月で満五十歳になる。人と 争わずゆつくり歩いて、二、三番目に入るように心がけたいものである。」(「無 題 十四」昭和26年12月1日・記)

326頁「今日は立春、空は晴れて暖かで、宅の庭では露地植えの福寿草が三 十芽ばかり見事に咲きだした、正に立春大吉です。

御手紙ありがとう。人生は末がよければ、平坦な道より山坂があった方がよ い。貴兄のグロンサンが旗色悪いと聞いて、一時心配しましたが、然し君なら きっと盛りかえす、跳ねかえすと私(ひそ)かに信じていました。私は常々新 聞雑誌の経済面は読まないのですが、誰か近頃上野君の会社の株価が上って来 たと教えてくれ、そうだろうと思いました。慶応、殊に幼稚舎の出身というと、 とかく景気のよい時はよいけれど、ピンチに見舞われるとシュンとなる人が多 い。然し君は違う。整理の際も思いきった方法をとられたとか、そうだろうと 思いました。

君は私が塾を出て幼稚舎に入っての第一回の担任卒業生、いわば私の群像作 品第一号の一人という訳だ。私は教師のくせに成績のことなどあまり尊重しな い方ですが、君は幼稚舎、普通部、大学と優い成績で、塾を出ると日本銀行に 入り、それから間もなく望まれてグロンサンの後嗣となった。君の真面目で努 力家で頑張屋なのは同級の誰もがよく知っている。ピンチを盛りかえして更に 大きく伸びるなんて男子一生の生き甲斐というものです。どうかしっかりやっ て下さい。この際体に気をつけて、頼みますよ。

さて、私は一昨年、不出来ながら幼稚舎史の完成したのを機会に停年退職さ せてもらった。当局から示された停年の年齢になったのを幸に勇んで退職を願 いでたのです。体力が衰えて来たことと、予(かね)てやりたいと思っていた 仕事もあるので思いきった次第。「炊くほどに風がもて来る落葉かな」というの は良寛坊の句でしたっけ。さあ気楽になった、これからと思った途端、幼稚舎 史(終戦まで)の続編をやれとの同窓生諸君の希望もだしがたくという訳で、 目下週二回学校に通って古帳面をしらべている。

宅では前々から心がけていた仕事、十年計画の大きい方と目の先の小さいの と、それが何であるか、もったいぶるようですが、今いう時ではありません。 仕事をしていて、つくづく感じるのは頭の悪い嘆き。ガンの薬もよいけれど、 君早く頭のよくなる薬を作ってくださいよ。ノータリンでは売れないでしょう。 ノーミソフエールとか何とか。

最後に私近頃ちょくちょく余興をやっています。多年集めた石版画だの何だ のが、明治百年の波にのって、あちこちから声がかかり、時に出開帳なんかや りました。これも保養のためのレクリエーションです。呵々。

キレイナ奥さんへよろしく。」 (「上野公夫様」『三田評論』昭和42年3月号)

「律義(律儀)、正直、親切(深切)」2013/03/13 06:56

 桑原三郎先生の随想集『下湧別村(しもゆうべつむら)』(慶應義塾大学出版 会・1999(平成11)年)に講演「教え子の恩と、吉田小五郎先生との一期一会」 がある。 その前年の9月27日に桑原三郎先生が幼稚舎(六カ年担任持ち上 がり制が原則)で担任した第一回から第八回までの教え子たちが開いた会での 講演である。 その第一回生が、志木高校から慶應義塾に入った私と、大学で 同期となる。 桑原三郎先生は、昭和23(1948)年3月に慶應義塾大学文学 部の心理学科を卒業し、心理学の主任だった横山松三郎教授の世話で、幼稚舎 に就職する。 前年12月、幼稚舎の餅つきの日に出向いて、舎長の吉田小五 郎先生にお目にかかると、「どうか一生居て下さい。子供は可愛いですよ。」と 言われたという。 昭和23年4月、1年O組の担任教師となる。 21歳3ヶ 月、教え子との年齢差は15歳だった。 初めての顔合わせの日、幼稚舎には 教壇がないので、子供たちに椅子を持たせて、自分のまわりに腰かけさせた。  すると、子供は可愛いもので、一人が直ぐに先生の膝の上にちょこんと坐った という。 山田拓郎君だ。

 桑原先生は振り返っている。 「私は二十一歳で幼稚舎の先生となり、忽ち 吉田先生の生き方に感動しました。先生の真似をして、頭を毬栗(いがぐり) にしたこともありましたが、吉田先生に嫌われないように生きたいと思ったの が、私の人生を決めたように思います。/先生は卑しいことが大嫌いです。で すから私も卑しいことは出来ない。先生の生き方は、人に威張らず、律義、正 直、親切でした。律義、正直、親切は、福澤諭吉先生が御長男の一太郎さんに 教えた文言(もんごん)であり、福澤先生の生き方でもあります。吉田先生の 生き方も同じなのですね。私も私なりに、為すべきことはきちっとするように 努め、してはいけないことはしないように努め、正直、親切に生きたいと思っ て来ましたし、人に威張ることもしませんでした。これは福澤流の生き方です。 /人の偉さは肩書きではありません。為すべき事をきちんとし為すべからざる ことはしない。そして嘘をつかず、自分勝手をしない事です。逆に、人の悪さ は、律義の反対の怠けること、してはいけないことをすること、正直の反対の 嘘つき、親切の反対の自分勝手、欲張りでしょう。/新聞を見ると、毎日のよ うに肩書きのある人がお金ほしさに変なことをしていますけれど、そういう人 は律義正直親切の逆方向を生きる人でしょう。律義正直親切の人は尊敬できま すが、その逆方向を生きる人とは疎遠でいたい次第です。」(引用終り)

 この「律義、正直、親切」は、明治13年8月3日、45歳の福沢が、アメリ カ留学3年前16歳の長男一太郎に書いて与えた文書にある。(桑原三郎著『愛 の一字』118頁) その冒頭は「活発磊落、人ニ交ルノミナラズ、進(すすん) テ人ニ近接シテ、殆(ほとん)ド自他の差別ナキガ如キ其際ニ、一片ノ律儀正 直深切ノ本心ヲ失ハザル事。/律儀正直深切ノ働(はたらき)ハ、明処ニ於テ スルヨリモ暗処ニ於テスルヲ貴トス。陰徳ハ陽徳ヨリモ効能大ナリ。」

吉田小五郎さんと福澤先生2013/03/14 06:40

 桑原三郎先生の『下湧別村』の「『幼稚舎家族』の刊行」(平成2(1990)年 2月)という文章には、私が「索引の、不思議な項目」と書いたものに関連し て、こうある。 「索引の項目に、「和を以て貴しとする」がございます。舎長 として幼稚舎の運営をなさった時の吉田先生の信条ですが、その根底には、私 の心、つまり私心の無い吉田先生の、幼稚舎生と教職員に対する、溢れる慈愛 がありました。だから、当時の幼稚舎は大変和やかで、一方、理想に燃えると ころがありました。」

 「又、「和して同ぜず」という言葉も、吉田先生のお好きな言葉で、……(中 略)……よく考えて、別の言葉を当てるとすれば、これは独立自尊(傍点)に 外ならない。」

 「吉田先生は、卑しさを甚だ嫌われましたが、人の卑しさを非難するのでは なく、御自分が卑しくなることを拒否なさった。そういう時、「ひとはひと、私 は私、つまり我が道を行く」ということを実践なさった。人に「和して同ぜず」 であり、「我が道をゆく」であります。先生は、幼稚舎生が卒業する時にも、「我 が道をゆく」と書いて贈られました。」

 「「我が道をゆく」というのは、私は、ゴーイング・マイ・ウェイというアメ リカ映画の翻訳語かと思っていたのですけれども、豈図(あにはから)んや、 この言葉の始祖は福澤先生で、初めは慶應三年の『西洋事情 外編』に出て来ま す。その後も、何度も使われました。「我は我が道を行く可きのみ」とか、「我 は我が道を独歩して」と、福澤先生は、時事新報の社説に時々使っておられる のです。」

 「吉田先生の考え方は、実に福澤先生のお考えに似ておられました。」

国立博物館の「飛彈の円空」展2013/03/15 07:04

 東京国立博物館140周年の特別展「飛彈の円空―千光寺とその周辺の足跡」 を見て来た(4月7日まで)。 44作品99躯と数は少ないが(ほかに円空画像 と自筆和歌)、いいものが来ていて、素晴らしい。 円空ファンは多いのか、 NHKと読売新聞の宣伝が効いたのか、いっぱいの人だった。 一昨年11月の 埼玉県立歴史と民俗の博物館の「円空 こころを刻む」展とは、だいぶ違う。

 大きいものが来ている、というのが第一印象だった。 円空が梯子に登り立 ち木に彫っている『近世畸人伝』の絵を、いつも見ていた金剛力士(仁王)立 像 吽形(千光寺、以下の寺社名ないものは千光寺)、根が腐って江戸時代に切 断されたというが、226センチもある。 護法神立像2躯は212センチと216.5 センチ。 金剛神立像2躯(飯山寺)は216.6センチと220.3センチ。

 一口に「円空仏」(この展覧会の英語名は“Enku’s Buddhas”)といい、「仏」 でくくるけれど、神像もある。 上の金剛神立像のほか、宇賀神像、男神坐像、 弁財天立像(飛彈国分寺)、稲荷三神坐像(錦山神社)、神像12躯などがあり、 狛犬もある。 神仏習合だからだろう。 今上皇帝立像(桂峯寺(けいほうじ)) は、神像だ。 元禄3(1690)年作というから、調べると東山天皇である。 珍 しいものでは、柿本人麿坐像(東山神明神社)がある。 烏帽子をかぶり、左 肘を脇息についた、この形の人麿像は中世に流布した定型だそうだが、円空の 人麿はやはり円空の笑いを浮べている。

 今回31躯が展示されている三十三観音立像は、一昨年4月の世田谷美術館 の「白洲正子―神と仏、自然への祈り―」展には10躯が来ていた。 その時、 円空は全般に仏像でありながら、神像に近い感じだという感想を書いている。  三十三観音が31躯なのは、もともとは50以上あったものを、近隣の人々が病 気になると借り出して回復を祈ったので、戻らないこともあったのだそうだ。  円空が「エンクさま」「インクさま」と敬われ、親しまれたことを伝えるエピソ ードの一つだ。

千光寺の秘仏、歓喜天(かんぎてん)立像が展示されている。 「白洲正子」 展には愛知県荒子観音寺の歓喜天像が来ていて、私は「ブランクーシの『接 吻』を思わせる」と書いていた。 歓喜天立像(13.5センチ)は、象の頭に人 のからだの二尊が抱き合う姿の像で、男女であるといい、インド密教のエロテ ィックな性格が生んだもの。 祈禱では、さまざまな障害を除き、富が与えら れるように祈るのだそうだ。 この像を本尊として行う修法は、秘密にしない と効果がないとされ、像も秘仏であることが多い。 千光寺のこの像も七年に 一度しか開帳されない秘仏で、しかも赤い厨子から出されることはないのだそ うだ。 見てはならないものを、見てしまったことになる。