「如月の望月(十五夜)のころ」2013/03/28 06:30

国立劇場前庭の桜

 桜の写真をつけて、「今日3月25日は旧暦2月15日、如月の十五夜、桜全 開です。願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもちづきのころ/西行が この歌を詠んだのは1187年。」というメールをくれた友人がいる。

 「如月の望月のころ」という旧暦2月15日(満月)のこの日は、釈尊の入 滅の日でもあり、出家の身としては、その日に死ぬことができれば最高だった わけだ。 驚くべきことに、西行はその願いどおり、建久元(1190)年2月16 日に河内国弘川寺で死んだ、という。

 この歌の載っている西行の私家集『山家集(さんかしゅう)』は、成立年不詳 という。 白洲正子さんの『西行』(新潮文庫)をぱらぱらやっていたら、この 歌は「吉野山へ」の章に出て来て、その直前に「心ゆくまで花に没入し、花に 我を忘れている間に、いつしか待賢門院の姿は桜に同化され、花の雲となって 昇天するかのように見える。ここにおいて、西行は恋の苦しみからとき放たれ、 愛の幸福を歌うようになる。」とあった。

 私は友人に、次のような返信をした。  「3月25日は旧暦2月15日、如月の十五夜」でしたか。 西行については、 夢枕獏さんが朝日新聞朝刊に連載した『宿神(しゅくじん)』を読んで、いろい ろと知りました。 西行、佐藤義清が出家したのは、「申すも恐れある」高貴の 女性、待賢門院璋子(たまこ)への悲恋の末だという説が有力です。 待賢門 院璋子は、佐藤義清が二十三歳で自分の娘を蹴飛ばして出家した時には四十歳、 ふたりの間には、十七歳の歳の差があったことになります。 生涯、そのひと を想い続けて、放浪したというのですから、よほど美しい人だったのでしょう。  奔放にして優雅、非常に魅力的な女性だったとか。

 ただ、出家した西行が、すぐ(少なくても数年は)放浪、隠遁したわけでな く、都のまわりにいて、それまでに付き合いのあった人々をふくめ、身分の高 い貴族や武士、その人たちに仕える女房たちと、頻繁に交流していたようです。  その件に関して、自ら百姓の出という、作家の車谷長吉さんの以下のような 「西行論」が、その小説に出てきて、面白いと思ったのを覚えています。 「西行が「人。」と言う場合、それは京都の貴族や僧侶、鎌倉武士だけを言う のであって、百姓などは「人。」の内に入っていなかった。 西行の出家遁世の 歌は、京都の貴族社会を捨てたと言うだけであって、生家が所有していた紀州 の広大な荘園の上がりを貰うことは死ぬまで止めなかった。 荘園で百姓を扱 (こ)き使い、その上に鎮座して、世の無常を嘆いた人である」というのです。