吉田小五郎さんの「人生の送り方」2013/03/12 06:47

 吉田小五郎さんの「人生(人生の送り方)」も、紹介しておこう。 116頁(ラッシュアウアー通勤の大変さを書いたあとで)「私は上野毛から天 現寺まで、一切人の先になることを避け、ゆつくり後から後からと心がけて学 校へ通つてくる。ところが学校へ着いて見ると、私は先生の中で大抵いつも二 番目か三番目になつている。つまり早い方なのである。私の人生の送り方が、 若し万事このようであつたらと思う。/私は明年一月で満五十歳になる。人と 争わずゆつくり歩いて、二、三番目に入るように心がけたいものである。」(「無 題 十四」昭和26年12月1日・記)

326頁「今日は立春、空は晴れて暖かで、宅の庭では露地植えの福寿草が三 十芽ばかり見事に咲きだした、正に立春大吉です。

御手紙ありがとう。人生は末がよければ、平坦な道より山坂があった方がよ い。貴兄のグロンサンが旗色悪いと聞いて、一時心配しましたが、然し君なら きっと盛りかえす、跳ねかえすと私(ひそ)かに信じていました。私は常々新 聞雑誌の経済面は読まないのですが、誰か近頃上野君の会社の株価が上って来 たと教えてくれ、そうだろうと思いました。慶応、殊に幼稚舎の出身というと、 とかく景気のよい時はよいけれど、ピンチに見舞われるとシュンとなる人が多 い。然し君は違う。整理の際も思いきった方法をとられたとか、そうだろうと 思いました。

君は私が塾を出て幼稚舎に入っての第一回の担任卒業生、いわば私の群像作 品第一号の一人という訳だ。私は教師のくせに成績のことなどあまり尊重しな い方ですが、君は幼稚舎、普通部、大学と優い成績で、塾を出ると日本銀行に 入り、それから間もなく望まれてグロンサンの後嗣となった。君の真面目で努 力家で頑張屋なのは同級の誰もがよく知っている。ピンチを盛りかえして更に 大きく伸びるなんて男子一生の生き甲斐というものです。どうかしっかりやっ て下さい。この際体に気をつけて、頼みますよ。

さて、私は一昨年、不出来ながら幼稚舎史の完成したのを機会に停年退職さ せてもらった。当局から示された停年の年齢になったのを幸に勇んで退職を願 いでたのです。体力が衰えて来たことと、予(かね)てやりたいと思っていた 仕事もあるので思いきった次第。「炊くほどに風がもて来る落葉かな」というの は良寛坊の句でしたっけ。さあ気楽になった、これからと思った途端、幼稚舎 史(終戦まで)の続編をやれとの同窓生諸君の希望もだしがたくという訳で、 目下週二回学校に通って古帳面をしらべている。

宅では前々から心がけていた仕事、十年計画の大きい方と目の先の小さいの と、それが何であるか、もったいぶるようですが、今いう時ではありません。 仕事をしていて、つくづく感じるのは頭の悪い嘆き。ガンの薬もよいけれど、 君早く頭のよくなる薬を作ってくださいよ。ノータリンでは売れないでしょう。 ノーミソフエールとか何とか。

最後に私近頃ちょくちょく余興をやっています。多年集めた石版画だの何だ のが、明治百年の波にのって、あちこちから声がかかり、時に出開帳なんかや りました。これも保養のためのレクリエーションです。呵々。

キレイナ奥さんへよろしく。」 (「上野公夫様」『三田評論』昭和42年3月号)