お彼岸に思い出す、父の言葉2013/03/21 06:46

 19日、魚籃下三田寺町の南台寺にお彼岸の墓参りに行った。 南台寺は母が 亡くなった時に、山形県鶴岡の菩提寺に紹介された同じ曹洞宗の寺で、偶然だ が後年、父は子供の頃に学んだ御田小学校の隣に眠ることになった。

 先日、家内が風呂場で高い所に物を干そうとして転び、胸を打った。 しば らく痛い、痛いと言っていて、病院に行ったら、初めはヒビが入っていたかも しれませんが…と言われ、痛み止めの入った湿布を貼ると軽快した。 踏み台 を用意して、それに乗ってやればよいのに、という話をしていて、父がよく工 場の従業員に言っていた言葉を思い出した。 「痛いのは、自分持ち」。 何事 も段取りをきちんとしてやれ、手を抜いて、怪我をしても「痛いのは、自分持 ち」だというのだった。

 同じように、父がつぶやいていた言葉を、いろいろと思い出す。 ご近所の 似たような規模の社長連中とは、「半端人足ばかりを集めて、何とかやっていく のが、中小企業の親方だ」とオダをあげていた。 私も、「半端人足」の一人だ った。 社会に出た頃、「会社の為、親身になって、一所懸命働く人は案外少な いだろう、いわゆる勤め人は多いけれど…」と、教えた。 「大事は小事の累 積で、小事のうちにかたづけろ。」 何十年お世話になっていますと従業員が自 慢すると、「何年いたかではなく、何をやったかが問題だ」と、叱っていた。

「無一物中無尽蔵」とか、「縁なき衆生は度し難し」とか言っていたのは、若 い時に廣池千九郎という人の道徳科学(近年は、モラロジーというらしい)を 勉強したことがあったからかもしれない。 曹洞宗の開祖、道元の『正法眼蔵』 (しょうぼうげんぞう)を教わったが、まるでわからないので、現成(げんじょ う)公案というのを丸暗記した、と言って、よく暗誦していた。 坊さんに会う と「仏道を習うと言うは、自己を習う也。自己を習うと言うは、自己を忘るゝ なり。自己を忘るゝと言うは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝと言 うは、自己の身心及び他己の身心をして脱落せしむるなり。」とやって、煙に巻 いていた。 私もいつの間にか、断片を憶えた。 こういうのを、「門前の小僧、 習わぬ経を読む」というのだろう。