江戸から明治へ、「重箱」の四代2013/03/04 06:42

 「おれのところの先祖ッてものは、相州厚木の在の造り酒屋の二男坊で、名 まえを儀平といったというんだが、それが、いつのまにか、儀兵衛になった。 ……儀兵衛のほうが、一応、もッともらしく聞えるからだろうナ。」 「この人 が、手のつけられない道楽もので、みごと家(うち)を勘当され、しょうこと なしに、あてもなく江戸に来たものだ。」 「いまをさる百何十年まえ、文化と か、文政とかいった時分のことだ……」 軽子(かるこ・いまでいう軽運送) になったが、稼ぎは知れてる、さきの見込だってない。 「そこで、千住にあ った鮒屋新兵衛という川魚問屋に住みこんだ。安全な主人もちになったッてわ けだ。……で、ちゃんと、無事に何年かつとめ上げて、やがて暖簾をわけても らい、大橋の近くに、メソッコうなぎを焼いてうる屋台店をだした。……のが、 鮒儀こと鮒屋儀兵衛というもののこの世に生れでたそもそもで、その後、また、 何年か相立ち申したとき、浅草の山谷に、野放しどうようになった地面をみつ け、それを安く買って、いまでいう食堂だ、入れごみの、気の張らない、手が る一式の、鯉こくとうなぎめしの店をはじめたとおぼしめせ、だ。/これが、 当った。」という調子で、久保田万太郎の『火事息子』は始まる。 五代目小山 清次郎のひとり語りだ。 その地面うちに、「重箱稲荷」というお宮があった。

 初代に子供がなく、養子にきた紀州さまの落し胤という二代目は、その縁で 紀州家御用となって、一度は金ができた。 上方見物に出かけて、大阪でいい 庭石をみつけてしこたま買い込み、「紀州家御用」をふりかざして、船に積んで 品川までもって来たという。 だが初代の丹精した身上に、どうも、大分、穴 をあけたらしい。

三代目も養子、味醂で有名な下総の流山の名主の何番目かの息子で、真剣に 商売に取組み、その証拠には、一説に「鮒儀」の代りに、客のほうで勝手に呼 び出した「重箱」を店の看板にしたさりゃく(作略)の持主だったという。 そ の頃には、三百坪あまりの広い庭だけでも、江戸市中のどこへ出してもみッと もなくないだけの貫録をもった料理屋になっていた。

 三代目は、ひとり娘に徳次郎という自分の甥をめ合せ、やがて、四代目にし た。 「のが、つまり、後におれの親父になったわけの人なんだが、この人ッ てものが、大した気楽人でね。……とにかく、商売そッちのけに、鰻の雌雄を 発見したりして、水産講習所の嘱託になったッて位のものなんだから……」  「そういう気楽人じゃァあったが、庖丁をもたしたら、しかし、東京のうなぎ や仲間に、肩を並べるものがいないといわれた位の名人だった。」「仕事となる と、まるで人間がかわったように、ただもう、ムキになって、下手に話しかけ でもしようものなら、それこそ、目のたまのとびでるほど呶鳴られた。」「その 親父に、おれは、小学校の高等二年(年にして、まだ十三四)のときから、店 を手伝わされた。」