従妹のお猶と民権数え唄2022/02/07 07:04

 朝井まかてさんの『ボタニカ』、そんなふうに書いていたら、みんな書かなければならなくなる。 いくつか、興味を覚えたというか、気になることを拾ってみよう。 まず、祖母の浪が牧野家に引き取った、富太郎の従妹で両親を喪った三歳下のお猶のことである。 祖母は、この家に手習の女師匠を招き、茶や花、琴、和歌などは自分で教えた。 将来は、富太郎に娶わせるつもりだろう。 明治9年の秋、高知県師範学校が出来、富太郎は色めき立ち、高知まで見に行くことになった。 手習の師匠が「俊秀」という猶も、ほかの二人の娘と一緒について行く。 富太郎は、授業内容を聞いてたちまち落胆したが、娘たちは高知県女子師範学校が創設されるのを待って、入学を果たした。 猶も市中の遠縁の家に下宿して、晴れて女学生になった。

 明治14年、富太郎が東京の内国勧業博覧会に出かけることになった時、祖母は「お猶、支度しておやり。富さんによう相談して、不便のないように」 「かしこまりました」 この頃の祖母は、二言目には「お猶」だった。

 富太郎が土佐に帰ったのが6月、その4か月後、板垣退助が自由党を結成した。 「一つトセー、人の上には人ぞなき、権利にかわりがないからは、コノ人じゃもの」、「三つトセー、民権自由の世の中に、まだ目の覚めない人がいる、コノあわれさよ」 明治15年が明け、村の衆のほとんどが自由党員になり、民権数え唄を歌っている。 富太郎も、何度も懇親会で演説に立って気勢を上げたが、むろん植学は続けている。 「七つトセー、何故(なにゆえ)お前がかしこくて、私らなんどは馬鹿である、コノわかりゃせぬ」 猶が繕いものをしながら、民権数え唄を口ずさんでいた。 女学校時代の仲間と入党したと、後で祖母に聞いた。 運動内部で、政府を転覆しようとする旧士族の急進派と、政府方針と折り合いを付けながら進めようという豪農の穏健派が対立して、いつももめている。 そこへ昨冬、帝のご意志で憲法を作り、九年後に国会を開く「詔勅」が発せられた。 民権運動はさらに混乱し、富太郎は、「もう政治にはかかわらん」と、脱党した。 「わしの思う自由は、学問でかなえますき」

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