耶馬渓競秀峰<等々力短信 第1169号 2023(令和5).7.25.>2023/07/18 07:00

     耶馬渓競秀峰<等々力短信 第1169号 2023(令和5).7.25.>

 7月10日九州北部の大雨のため、大量の流木がひっかかり、中津市本耶馬渓町の山国川に架かる国の重要文化財「耶馬渓橋」の欄干の約半分が流失したことが判明した。 「耶馬渓橋」は、全長116メートル、8連のアーチ橋で、現存する石造りのアーチ橋では国内で最も長い。 大正12(1923)年に旧東城井村が競秀峰(青の洞門)近隣の周遊のため敷設した観光道路の一部として架橋した。 令和4(2022)年5月10日に国の重要文化財に指定されたばかりだった。 「青の洞門」は、山国川右岸の競秀峰下の通行の難所に穿たれたトンネルで、18世紀中ごろ僧禅海が30年余を費やし鑿と槌だけで開削した。 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で知られる。 中学の国語で読んだ。

 「日曜美術館」の「アートシーン」で、木島櫻谷という日本画家の、物凄い描写力に驚いて、泉屋博古館東京の「木島櫻谷―山水夢中」展を見に行った。 コノシマと読むことも知らなかった。 木島櫻谷(1877-1938)は、近代の京都画壇を代表する存在として、近年再評価が進んでいるそうで、山海の景勝の写生を重ね、それを西洋画の空間感覚も取り入れた近代的で明澄な山水画として描いている。 中に明治42年5月の写生帖の11枚を張り合わせた《渓山奇趣》耶馬渓と、それを紙本墨画金泥で描いた《万壑烟霧(ばんがくえんむ)》6曲1双の屏風があった。 「壑」は、手前の奥深い谷。

 長年福沢をかじりながら、中津に行ったことがなかったが、2009年11月に福澤諭吉協会の第44回福澤史蹟見学会で、念願の中津に行き、耶馬溪へも行った。 全国の羅漢寺の本になったという羅漢寺門前に、つい3日前建てられた「福澤諭吉羅漢寺参詣記念之碑」も見てきた。 耶馬渓競秀峰は約1kmにわたり美しい峰が連なる景勝地で、福沢諭吉はその景観保全に尽力した。 競秀峰の名は宝暦13(1763)年に訪れた江戸浅草寺の金竜和尚、耶馬渓の名は文政元(1818)年に訪れた頼山陽による。

 福沢は明治7年11月17日には日田-耶馬溪-中津を結ぶ「豊前豊後道普請の説」を発表した。 今回の水害のニュースで、よく名が出た場所である。 明治27年3月墓参のため長男一太郎と次男捨次郎を伴い帰郷した折、一日耶馬渓に遊び、競秀峰が売りに出されていることを知った。 心ない者が購入して樹木を伐採すれば景観が損われてしまうことを憂えた福沢は、曾木円治に仲介を依頼して、同年4月30日から30年5月31日までの7回にわたり、目立たぬように少しずつ売りに出されている土地を買い、その名義はかつて山林の事業に関係した義兄小田部武にした。 武の子菊市、福沢捨次郎、時太郎と引き継がれ、風致保存を条件に譲渡された。 この風景保全の為の約1万平米の土地買収は、ナショナル・トラスト運動の先駆けともいわれている。

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