「戦後の思想空間の中での福澤諭吉、小泉信三」2019/05/19 08:08

 『三田評論』5月号の特集、つづいて楠茂樹上智大学法学部教授の「戦後の 思想空間の中での福澤諭吉、小泉信三――『帝室論』に触れながら」。 二つの 思想空間とは、一つは憲法学のコミュニティーの「象徴」(第一条)の法解釈論 であり、もう一つは、より広く日本、日本人と天皇、皇室との関係を問う政治 的、社会的(あるいは歴史的、文化的)な関心事として、象徴天皇のあり方を 語るものである。 象徴天皇の本質を福沢諭吉の『帝室論』に見出した小泉信 三は、後者に属する。

 戦後の言論界では、マルクス主義者が隆盛を誇り、マルクス主義にコミット のない知識人の多くも、この流れに同調的であった。 マルクス主義批判の旗 手として知られた小泉信三は、こうしたプラットフォームに囚われることなく、 自由な立場で象徴天皇を論じることができた。 敗戦による反動で天皇の存在 と役割について消極的にしか考えられなかった戦後の思想空間の中で、「象徴」 という非政治的な存在として位置づけられたが故に、むしろ日本、日本人と正 面から向き合う、その精神面においてより重要な役割を期待したのが、小泉信 三だった。 それは、福沢諭吉研究の第一人者として、かつ慶應義塾において その思想を受け継ぐ者として、確固たる哲学的基礎の上に立つことができたか らだといっても過言ではない。

 英国王室に見た「象徴」、天皇の非政治化:その方向性、福澤諭吉と小泉信三: 戦後に「帝室論」を説いたことの意味、の三章は、昨日の座談会の内容に通じ る。 「小泉信三にとって、日本国憲法による象徴天皇の規定、すなわち天皇 の非政治化は、日本の再生と復興の絶好の条件に映った。独立自尊の福澤哲学 を受け継ぐ小泉は、福澤の『帝室論』の冒頭にある「帝室は政治社外のものな り。苟(いやし)くも日本国に居て政治を談じ政治に関するものは、その主義 に於て帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからず」との記述を見逃さなかっ た。」

 「「象徴」という概念が日本国憲法に登場した時点において、小泉は慶應義塾 指導者としての経験から福澤の著書に隅々まで精通し、個人主義と自由主義で は説明し切れない福澤の国家観にいち早く問題意識を持っており、言論の反転 に対してぶれない胆力を持った旧世代の人物だったが故に、福澤の『帝室論』 を説いて「象徴」という概念の具体的な解釈提言をなし得たのだといえよう。 それは福澤を単なる研究対象として捉えるだけではなく、独立を失った戦後日 本にとって福澤の独立自尊の精神が真に求められていることを確信したが故に、 「独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催うす」天皇の存 在の重要性もまた確信したのだといえよう。」

 「戦後、小泉が説いた象徴天皇の真髄を提供したのはもちろん福澤諭吉であ るが、それを戦後の文脈に当てはめ、英国の歴史を意識しつつその実像を具体 化させ、見事に紡ぎ直したのは小泉信三の功績である。天皇を「形式」に閉じ 込めようという風潮の強かった当時の思想空間の中で、「象徴」をめぐる福澤か ら小泉への思索のリレーがなされたことは慶應義塾の誇るべき歴史の一つであ るといえよう。」

福沢『帝室論』とバジョットの『イギリス憲政論』2019/05/18 07:10

 『三田評論』5月号の特集「『帝室論』をめぐって」が、たいへん勉強になっ た。 まず、座談会「『帝室論』から読み解く象徴天皇制」である。 都倉武之 福澤研究センター准教授の司会で、井上寿一学習院大学学長、君塚直隆関東学 院大学教授、河西秀哉名古屋大学大学院准教授の出席。

 都倉さんは、明治15(1882)年『時事新報』に連載された『帝室論』を、 長く将来にわたって読ませるために書いたものか、その時の時事論なのか、と いう問題を提起し、時事論として見たときは、自由党や改進党に対抗して、御 用政党の立憲帝政党が出てきて、天皇主権をうたい、帝室の尊厳を一番大事に しているのはわれわれだと主張し始めた。 福沢はこれに対して、天皇の権威 を党派が借りることを直接的に批判し、この機会に比較的に長い視野で通用す る皇室論を説こうともしている。 『帝室論』と『尊王論』(明治21年)をセ ットで考えたときに、一貫しているのは、天皇の権威を神話などに由来する神 権的、宗教的なところから説き起こすのではなく、いわば唯物的に把握しよう とする点だ。 天皇の神性が絶対的な権威となり、政治を左右する可能性への 危険性の直感のようなものを福沢は持っていたのではないか、と都倉さんは考 えている。

 『帝室論』が「西洋の一学士」「バシーオ氏」、ウォルター・バジョットの『イ ギリス憲政論』からいろいろな影響を受けているという君塚さんの指摘は重要 だ。 「西洋の一学士、帝王の尊厳威力を論じて之を一国の緩和力と評したる ものあり。意味深遠なるが如し」。 政治思想史的に君主というものをどう位置 づけるか、バジョットは、君主はその国のdignity、尊厳的な部分であり、そ れに対して政治や議会が機能的な部分であるという区分だ。 尊厳的な部分が、 一国の緩和力であり、政治の中では重要な部分で、皇室はいずれの政党にも属 さない、公正中立で超越的な存在であるとする。

 井上さんは、政党政治が本格的に動き始めたのは戦前昭和の二大政党制の時 代で、二大政党制が崩壊したのは、軍部の責任もあるけれど、政党の側にも非 常に重い責任があって、『帝室論』が示しているような立憲君主国の戦前昭和版 ができなかったことが、破局につながったと考える。 また、天皇自身が政治 的なファクターとして関わらざるをえなくなったことで、回り回って破局につ ながったという点では、まさに『帝室論』が先駆的に指摘している通りだとす る。

 敗戦を経て憲法が変わり、『帝室論』が再び注目されるようになる。 君塚さ んは、バジョットの影響は、戦後の昭和天皇の時代まで通奏低音として流れて いると言う。 昭和天皇は皇太子時代、第一次大戦が終わった直後の大正10 (1921)年5月からヨーロッパを歴訪し、最初にイギリスでジョージ五世と親 しく接し、紹介されたケンブリッジ大学国政史のJ・R・タナー先生の進講を受 ける。 ジョージ五世は四半世紀前の即位に当って、タナー先生とバジョット を読んでいた。

 河西さんは、ジョージ五世の存在が、昭和天皇を介して今の象徴天皇のあり 方に、非常に影響を与えているとする。 昭和天皇は、政治家に対して助言し たり励ましたり、ということをしてこそ君主としてのあるべき姿だと考えてい たようで、バジョットやジョージ五世の影響をすごく受けて、自らの行動をし ていたように思う、と言う。

 外交官ハロルド・ニコルソンが『ジョージ五世伝』を出版した翌1953(昭和 28)年、エリザベス女王の戴冠式に皇太子(現、上皇)が昭和天皇の名代とし て参列、随行していた小泉信三に当時の駐英大使がこの本を渡し、御進講で一 緒に読むことになる。 君塚さんは、1998(平成10)年5月、天皇になって から初めてイギリスを公式訪問した際の記者会見で、陛下が「ジョージ五世の 伝記は小泉博士と一緒に読みました。バジョットの憲法論、国王は相談され、 励まし、警告するということをジョージ五世は学ばれました。ジョージ五世の 地道に誠意をもって国のため国民のために歩まれた姿は感銘深いものがありま す」とおっしゃった、と言う。 そして、小泉信三がこの本を選んだのは、ジ ョージ五世が義務というものに忠実な君主だったからだろうとする。 ジョー ジ五世は、立憲君主制についてはバジョットを読み、1910年の即位後はいろい ろの経験を積み重ね、君主としての人生も公明正大で、どの政党にも偏らず、 そして国民と共に第一次世界大戦を乗り切った、そのような姿勢を小泉さんと 一緒に伝記を読んでいく中で感じ取ったのではないか、と。

再び「小泉信三御進講覚書」2019/05/17 07:10

小泉信三さんの「御進講覚書」について4月18日のブログに書いたところ、 『文藝春秋』5月号に「小泉信三が願ったお二人のやすらぎ」をお書きになっ た山内慶太さんから山内慶太・神吉創二・都倉武之編『アルバム 小泉信三』(慶 應義塾大学出版会)に全文が載せてあると教えて頂き、三田に行ったついでに 図書館で見て、コピーを取ってきた。 ブログで推測していた内容を補足して みたい。

「御進講覚書」昭和25年4月24日は、「今日から始めて経済学の極めて一 般的なる要項を御進講申上げることに致しますが、私のこの講義の目的は単に 経済学の知識をお話し申上る丈けでなく、皇太子としてお弁まへになって然る べき社会的事物一般に干(ママ)する知識或は御心得に及ぶつもりであります から、時として経済学以外の問題にも亘って申上ることが度々ありますことゝ 存じます。何卒そのお積もりで御聴きを願ひたく存じます。」と始まる。

「凡べての御進講に先だち、常に殿下にくり返し御考へを願はねばならぬこ とは、今日の日本と日本の皇室の御位置及び其責任といふことであります。」と して、保阪正康さんが「声でつづる昭和人物史・小泉信三」の放送で要約した、 近世の歴史で戦争があって勝敗が決まると、多くの場合、敗戦国で民心が王室 をはなれ、あるいは怨(うら)み、君主制が終りを告げるのが通則だという話 になる。 第一に1870年の普仏戦争、夏に起った戦争が9月にセダンの会戦 で仏が大敗すると、仏の帝政は廃せられて共和制が布告された。 第一次世界 大戦ではロシア、ドイツ、オーストリアという三大帝国の皇帝は皆な位を追わ れ、ロシア皇帝などは言うに忍びない最期を遂げた。 また、第二次世界大戦 でもイタリアは結局王政を廃して共和制となった。

「諸国の実例は皆なこの如くであるにも拘らず、ひとり日本は例外をなし、 悲むべき敗戦にも拘らず、民心は皇室をはなれぬのみか、或意味に於ては皇室 と人民とは却て相近づき相親しむに至ったといふことは、これは殿下に於て特 と御考へにならねばならぬことであると存じます。」 その後、前にも引いた重 要な箇所が来る。

 「責任論からいへば、陛下(昭和天皇)は大元帥であられますから、開戦に 対して陛下に御責任がないとは申されぬ。それは陛下御自身が何人よりも強く お感じになってゐると思ひます。それにも拘らず、民心が皇室をはなれず、況 (いわん)や之に背くといふ如きことの思ひも及ばざるは何故であるか。一に は長い歴史でありますが、その大半は、陛下の御君徳によるものであります。」

そして、「若しも日本の敗戦に際して日本の君主制といふものがそれと共に崩 れるといふが如きことがありましたならば、日本は拾収(ママ)すべからざる 混乱と動揺とに陥ったであらうと思ひます。幸ひにもその事なくして、宛(あ たか)もアメリカ人が国旗を見て粛然として容(かたち)を正すやうに日本人 民が皇室を仰いで襟を正しもし茲(ここ)に心の喜びと和やかさとの泉源を感 じて、国民的統合を全うすることを得たのは、日本の為め大なる幸福としなけ ればなりませぬ。私どもが天皇制の護持といふことをいふのは皇室の御為めに 申すのではなくて、日本といふ国の為めに申すのであります。さうしてその天 皇制が陛下の君徳の厚さによって守護せられたのであります。終戦前は今日と ちがひ、陛下直接民衆にお接しになります機会は極めて少なかったにも拘らず、 国民は誰れいふとなく、陛下が平和を愛好し給ふこと、学問芸術を御尊重にな りますこと、天皇としての義務に忠なること、人に対する思ひ遣りの深くお出 でになりますことを存じ上げて居り、この事が敗戦といふ日本の最大不幸に際 しての混乱動揺を最小限に止めさせた所以であると存じます。」

「殿下に於てこの事を深くお考へになり、皇太子として、将来の君主として の責任を御反省になることは殿下の些かも怠る可らざる義務であることをよく お考へにならねばなりませぬ。」

「殿下はお仕合せにも陛下の場合とちがひお父上が御壮健であられます故、 皇太子としての御勉強に専念遊さる時間も多く御持ちになる次第でありますか ら、よくく(ママ、よくよくか、よくか)この君徳といふことについて御考へ になっていたゞきたいと存じます。新憲法によって天皇は政事に干与(ママ) しないことになって居りますが、而かも何等の発言をなさらずとも、君主の人 格その識見は自ら国の政治によくも悪るくも影響するのであり、殿下の御勉強 とは修養とは日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし。」

そして最後に、前に引いた「注意すべき行儀作法。」が列挙されている。「人 の顔を見て物を言ふこと。」の後には、「(人から物を貰ったりした場合等の注 意)」とある。

全体に、福沢諭吉の『帝室論』の「我帝室は日本人民の精神を収攬するの中 心なり。その功徳至大なりと云ふ可し」「帝室は独り万年の春にして、人民これ を仰げば悠然として和気を催ふす可し」の精神を、骨太のバックボーンとして 受け継いでいる。 ちょうど『三田評論』5月号の特集「『帝室論』をめぐって」 を読んだところだったので、余計にそれを感じた。

牛込あたりの猫は、よくしゃべる2019/05/15 07:18

 夏目漱石の生れた馬場下や神田川のあたりは、2014年の「志木歩こう会」の 「早稲田から神楽坂へ」で歩いていた。 付近に若干の土地勘があるのは、あ の「歩こう会」にも参加した赤松晋さんが南榎町在住で、高校時代に彼の家に 遊びに行ったからである。 彼にメールを打つことがあって、たまたま読んだ 磯田道史さんの『江戸の備忘録』(文春文庫)に土地に関わる面白い話が出てい たので、時に、お宅牛込南榎町の黒柴は、人の言葉をしゃべりますか? と、 こう書いたのだった。

 江戸人は「猫は十年、人に飼われると人語をしゃべる」と信じていた。 と くに牛込あたりの猫はよくしゃべった。 まず寛政7(1795)年春、牛込山伏 町の和尚の飼い猫がしゃべった。 庭でハトをねらっていたので、和尚が「あ ぶない!」と声をかけてハトを逃すと、猫は不服そうに「残念なり」とつぶや いた。 ところが和尚は豪胆、猫に小刀を突きつけ「おまえは畜類。しゃべる のは奇怪至極。化けて人をたぶらかすつもりか」とせまった。 すると猫は人 の言葉で「我に限らず、猫というものは十年生きれば、すべて物を言うものぞ」 と答えたという(『耳嚢(みみぶくろ)』)。

 また天保6(1835)年秋、牛込榎町の幕臣・羽鳥氏の飼い猫がしゃべった。  〈年久敷飼置(としひさしくかいおき)たる白黒ぶちの雄猫〉で、縁側で寝て いたが、隣の猫が来て「ニヤァ」と鳴くと、人の言葉で「来たな」と言い、そ れ以来、牛込の猫はしゃべると評判になった。

 それから32年経って、猫がしゃべった牛込榎町一帯の名主・小兵衛の家に 男子が生れた。 名は金之助という。 この金之助、大人たちから「猫はしゃ べるもの」と聞かされて育ち、のちに名作小説を書いた。 そう、金之助とは 夏目漱石の本名、小説は『吾輩は猫である』である。

屋根船で行く芝居見物2019/05/14 07:07

 福澤諭吉協会の一日史蹟見学会の旧古河庭園で、以前この会で知り合ったH さんという女性と今泉みね『名ごりの夢』の話になって、みねが築地から大川 (隅田川)を舟で浅草へ芝居見物に行った話をした。 ついでに、夏目漱石の 『硝子戸の中』に漱石の姉さんたちが牛込の神田川から屋根船に乗って、芝居 見物に行くのが出て来ることも話したのだった。 どちらの芝居見物も、幕末 から、明治の初めにかけてのことで、芝居小屋は浅草聖天町の一郭猿若町に三 座があった時代である。  

 今泉みねの場合は、こうだ。 芝居見物はたのしみで、前夜はほとんど眠れ なかった。 七つどき(午前4時)にはようやく起きだして公然の支度が始ま り、供まわりの者の支度も出来ると、桂川家のあった築地から、屋根ぶね、大 勢の時は屋形ぶねで浅草へ行く。 船つき場へはちゃんときまった茶屋からの 出迎えが、手に手に屋号の紋入りの提灯を持って出ていた。 「芝や町は猿若 町といって、なんでも一丁目二丁目三丁目と小屋もそれぞれにあり、三芝居と いったものです。」 通りの両側にのれんをかけたお茶屋がずっと並んでいて、 ぶらさがった提灯の灯のきれいなこと、船から上がって、この町を歩いて行く あたりの楽しさといったら、もう足も地につかないほどだった、という。

 漱石の姉さんたちの場合は、『硝子戸の中』の二十一にある。 漱石が生まれ た慶應3(1867)年に、異母姉さわは数え22歳、異母姉ふさは17歳で、その 下に三人の兄がいた。 父は名主で、青山には田地があり、そこから上がって くる米だけでも、家の者が食べるのには不足がなかったという富裕な家だった。 

 姉さんたちは、夜中に支度をして、馬場下の家から、下男が供をして、牛込 区揚場町の神田川の船着場へ出て、そこにあつらえて置いた屋根船に乗る。 神 田川をお茶の水から柳橋へ下り、大川(隅田川)に出て遡り、吾妻橋を抜けて、 今戸の有明楼の傍に着けた。 そこから上がった姉さん達は、芝居茶屋まで歩 いて行き、その茶屋から芝居小屋の高土間の設けの席へ送られて行った。 高 土間というのは、桟敷と中央の平土間の間にあって、平土間より一段高い場所 で、そこに座ると服装(なり)なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によくつく ので、派出(はで)を好む人達が、争って手に入れたがる席だったという。 漱 石は書く「幕の間には役者に随(つ)いてゐる男が、何(ど)うぞ楽屋へお遊 びに入らつしやいましと云つて案内に来る。 すると姉達は此の縮緬の模様の ある着物の上へ袴を穿(は)いた男の後に跟(つ)いて、田之助とか訥升(と っしょう)とかいふ贔屓の役者の部屋へ行つて扇子に畫などを描いて貰つて帰 つてくる。 是が彼等の見栄だつたのだらう。 さうして其見栄は金の力でな ければ買へなかつたのである。」 帰りは、また船で戻り、揚場へ下男が又提灯 を點(つ)けて迎えに行く。 家へ着くのは十二時ころ、つまり夜半から夜半 までかかって芝居を見たのだという。