旧古河庭園と古河虎之助 ― 2019/05/13 07:19
福澤諭吉協会の一日史蹟見学会「北区・飛鳥山を訪ねて」、最後は旧古河庭園 へ行った。 旧古河庭園には何度か行ったことがあり、2008年のバラの盛りに 枇杷の会の吟行で行った時は、<薔薇の香や英国の話聴きに行く><風匂ひ人 集ひ薔薇盛りなり><コンドルの黒き洋館椎咲く香><プリンセスミチコ五月 の風に揺れ><両洋の庭を分けたり木下闇><下闇や虎の顔して猫が出る>< 椎の花降る中雨の降り来たる>などという句をつくっていた。
旧古河庭園の土地はもと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅だったが、宗光の次男 が古河家の養子になった時、古河家の所有になった。 1919(大正8)年、古 河家三代目当主・古河虎之助によって現在の「和と洋が調和する大正の庭」に 整えられた。 洋館と洋風庭園の設計者は、英国人建築家のジョサイア・コン ドル(1852-1920)、日本庭園の作庭者は、京都の庭師・植治こと小川治兵衛 (1860-1933)である。
古河虎之助は、小室正紀さんに頂いた資料によると、1887(明治20)年-1940 (昭和15)年、古河財閥創業者古河市兵衛の実子で三代目当主、古河財閥を総 合財閥に発展させた。 1898(明治31)年、慶應義塾に入り、小幡篤次郎の 薫陶を受ける。 1903(明治36)年、慶應義塾普通部を卒業、コロンビア大 学に留学。 1905(明治38)年、二代目である義兄が若くして病没したため、 三代目当主となる。 当時、足尾銅山の鉱毒のため、同社への非難は根強かっ たが、翌年古河鉱業社長に就任して間もない虎之助は、非難を緩和すべく、東 北帝国大学と九州帝国大学の校舎建設費用を寄付した。 慶應義塾評議員を第 10期より長く務めた。
第一次大戦以降、経営を多角化し鉱業(古河鉱業)・金融(古河銀行)・商社 (古河商事)を中心として、横浜ゴム、旭電化、富士電機、東亜ペイント、大 日電線、帝国生命保険、富士通信機、日本アルミ、古河鋅造、古河電池、日本 軽金属、日本特殊軽合金などを傘下に抱く20社以上の企業を束ねる一大コン ツェルンに拡張させた。
しかし1920(大正9)年の戦後恐慌に際しては経営が失速、翌年には古河商 事が破綻、1931(昭和6)年には古河銀行を第一銀行に譲渡し、総合財閥の基 幹である商社と金融の機能を喪失した。 関東大震災の際、邸内を解放、避難 者約2000人を受け入れ、医療団に負傷者の治療に当たらせ、バラック住居86 戸を建てて避難者524人を収容した。
その一方、社長在任中には重化学工業部門の規模拡大を図り、古河電気工業 (1920(大正9)年合併)、富士電機製造(1923(大正12)年設立)、富士通 信機製造(1935(昭和10)年設立)などを誕生させ、鉱業部門に代わって工 業部門を発展させた。
古河系、第一銀行本店にいた私には、懐かしい名前の会社が多い。
会津出身の教育者・高嶺秀夫 ― 2019/05/12 08:03
高嶺秀夫(1854-1910)…教育者。 福沢諭吉の長女・里が嫁した中村貞吉 の妹、勢んの夫。 資料に戸籍謄本のコピーがあったが、協会の坂井達朗常務 理事がご親戚だからであった。 たまたま私は、中村仙一郎著・中村文夫編『聞 き書き・福澤諭吉の思い出―長女・里が語った、父の一面―』(近代文芸社)を 読んだばかりだった。
ウィキペディアによると、高嶺秀夫は1854年10月5日(嘉永7年8月14 日)(戸籍謄本は安政元年8月15日、安政への改元は嘉永7年11月27日(1855 年1月15日))会津藩士高嶺忠亮(ただすけ)の長男に生まれた。(戸籍謄本 は高嶺金右衛門長男) 藩校・日新館で漢学を学び頭角をあらわし、藩主松平 容保の小姓となり、会津戦争では藩主とともに籠城し、降伏した。 東京で監 禁謹慎、赦免後、沼間守一の私塾で英語を学び、斗南藩(旧会津藩)の命によ り、明治4(1871)年7月、慶應義塾に学び、5年間にわたり教員も務めた。 明治7(1874)年に福沢の推薦で文部省に出仕、派遣留学生としてアメリカの ニューヨーク州のオスウィーゴー州立師範学校に留学した。 ペスタロッチの 教育思想にもとづく生徒の自発性を重視する開発教育・教授法の教育学、博物 学、心理学、生物学、動物学(進化論)を学んだ。 帰国後は、教員となって、 アメリカで学んだ教育学を、東京師範学校(現筑波大学)に取り入れ、近代教 育の基礎づくりに貢献した。 同校始め、東京美術学校、東京音楽学校、東京 女子高等師範学校の各校校長を歴任した。 近代日本の美術の保護・奨励にも 大きな足跡を残し、シカゴ万国博覧会(1893年)への日本の展示等にも尽力し た。
日本における修学旅行は、森有礼の師範教育改革に、軍隊的要素が入ってい ることに抵抗した高嶺秀夫が、行軍旅行に学術研究の要素を取り入れて、修学 旅行と称するようになったのが始まりとされているという。 この修学旅行エ ピソードの高嶺秀夫は、4月4日放送のNHK「ネーミングバラエティー 日本 人のおなまえっ!」学校編に登場し、曽孫の土田健次郎さんが高嶺秀夫役を演 じたそうなので、ご覧になった方があるかもしれない。
染井霊園と近くの本妙寺掃苔 ― 2019/05/11 07:14
昼食後は、豊島区駒込5丁目の染井霊園へ行く。 染井はソメイヨシノの発 祥の地といわれ、よく名前は聞くが、行くのは初めてだった。 神仏分離政策 を進めていた明治政府により、1872(明治5)年播州林田藩建部邸跡地に神葬 墓地(既存の墓地の多くは寺院の所有だったため)として開設、1874(明治7) 年東京府に移管され、宗教を問わない墓地になった。
訪ねた墓。 杉享二(こうじ)(1828-1917)…日本における統計学の先駆者。 福沢の前に、1849年中津藩江戸藩邸の蘭学塾で教授。 1853年、勝海舟の塾 で塾長。 蕃書調所教官、開成所教授職となり西洋統計学を独学。 維新後は 静岡藩藩士、沼津兵学校教官、『駿河国沼津政表』作成。 1870年、明治政府 に出仕し統計業務に従事、『明治十二年甲斐国現在人別帳』は日本初の本格人口 調査。 明六社社員。 小室さんによると、統計学の西川俊作先生がこの墓を 大切にしていたそうなので、同じ流れの小尾恵一郎ゼミの私も有難く拝まねば ならないのだった。
浜尾新(1849-1925)…教育行政家。 但馬国豊岡藩士。 1869年に慶應義 塾に入り、大学南校で学ぶ。 1872年、文部省出仕、アメリカ留学、東京開成 学校校長心得、東京大学法・理・文学部綜理補、文部省専門学務局長、東京大 学総長などを歴任。 1897年松方正義内閣文部大臣。 枢密院議長。
野村文夫(1836-1891)…ジャーナリスト・自由民権運動家。 名前も知ら なかったが、広島藩医の子で福沢と同じ1855年、藩費留学生として緒方洪庵 の適塾に入っているけれど、書簡集にも自伝にも名前がないそうだ。 1865 年、英国へ密航。 藩の洋学教授や民部省に出仕、退職後1877年に『団団(ま るまる)珍聞』を創刊し時局を風刺。 1882年、立憲改進党に入党。 1889 年、東京政友会を設立。 陸羯南の『日本』創刊にも関与。
高嶺秀夫(1854-1910)…教育者。 この人も、名前を知らなかった。 明日、詳しく触れる。
染井霊園を出て、すぐ近くの本妙寺へ。 森山多吉郎(1820-1871)…幕末 の蘭語・英語通詞。 通詞の家業を継いで長崎奉行所に仕官。 難破したアメ リカ人捕鯨船員について英語を修得。 1851年から英和辞書の編集に従事。 1853年、ペリー来航の際の通訳。 外国奉行通弁役頭取。 『福翁自伝』「小 石川に通う」に、英学発心した福沢が森山に英語を習おうとその家に通うが、 森山が条約を結ぶ件などで忙しく、とても教えてくれる暇がない、とある。 森 山は文久遣欧使節に随行しているが、福沢が随行した一行本隊よりちょうど2 ヵ月遅れて、淵辺徳蔵とともに、賜暇帰国のオールコックに同行渡欧し、ロン ドンで本隊に合流した(芳賀徹『大君の使節』)。 帰国後、外国奉行支配調役。 この間、江戸に私塾を開き、門下に福地源一郎、沼間守一など。
本妙寺には、遠山金四郎、千葉周作、本因坊歴代の墓もあった。 その隣の、 慈眼寺には、芥川龍之介、芥川比呂志、芥川也寸志、谷崎潤一郎、司馬江漢の 墓があるそうだ。
東洋文庫オリエント・カフェで、咸臨丸のことなど ― 2019/05/10 07:17
昼食は、六義園近くの東洋文庫オリエント・カフェへ行った。 平凡社から 出ている東洋文庫の本は、今泉みね『名ごりの夢』やモースの『日本その日そ の日』で知っていたが、実は東洋文庫に行くのは初めてだった。 東洋文庫が 三菱の岩崎久彌によって設立されたことも知らなかった。 東洋学分野の日本 最古・最大の研究図書館である東洋文庫は、大正13(1924)年に設立されて いる。 オリエント・カフェを小岩井農場が運営しているのも、小野義眞(日 本鉄道会社副社長)、岩崎彌之助(三菱社社長)、井上勝(鉄道庁長官)の三人 の共同創始者の頭文字をとって「小岩井」と命名された農場を、後に岩崎久彌 (三菱第三代社長)が継承し、場主となった縁なのだという。
昼食はビーフシチューだったが、デザートのアイスクリームがさすが小岩井 農場、美味しかった。 お隣になった旧知の市川伊三夫さんから、東洋文庫と 三菱の関係を教えて頂く。 『名ごりの夢』(東洋文庫)の今泉みねは、日本国 中蘭学医の総本山桂川家、桂川甫周国興の「おひい様」で、みねを生んで間も なく亡くなった母親が木村摂津守喜毅の姉という桂川と木村の親戚関係が、福 沢を咸臨丸に乗せることになった。 咸臨丸では、測量のために来ていて暴風 のため横浜港内で難船し帰国の便船を待っていたアメリカ海軍のブルック大尉 一行を乗せたことが、荒れ模様の太平洋での操船に大いに役立った。 そんな 話をしていると、市川さんが子母澤寛の『勝海舟』に、咸臨丸では塩飽の水夫 (かこ)が活躍したとあると、話してくれた。 子母澤寛の『勝海舟』は、若 い時に興味深く読んだが、それはすっかり忘れていた。
帰ってから、土居良三さんの『咸臨丸海を渡る』(未来社)を見てみた。 「あ とがきにかえて」に、「ブルックの帆船船長としてのキャリヤーと統率力、(中 浜)万次郎の英語力とその船乗りとしての力量、暗夜でもマストに登り風を見 て舵をとることのできる水夫五人、この三つのどの一つを欠いても、あの時季 このコースをとった咸臨丸に、その成功は「覚束なかった」のである。」とあっ た。 この「水夫五人」は、本文149~150頁をみると、ブルックの部下のチ ャールス・スミス以下「熟練の水兵」だった。 ブルックの日記には「今朝日 本人が前檣のトップスルをたたんだ」とあり、(日本人)水夫たちも風の中で帆 をたためるまでに慣れて来ていることがわかる、とある。 最年少の乗組員、 斉藤留蔵の日記『亜行新書』によると、暴風雨の中で帆の上げ下ろしは「一切」 アメリカ人の助けを借り、甲板に出てアメリカ人に負けない働きをしたのは、 中浜万次郎、小野友五郎、浜口輿右衛門の三人だけだったという。
塩飽の水夫のことである。 サンフランシスコに着いて、すぐ四人が病院に 入り、三人が亡くなった。 今は、サンマテオ・カウンティのコルマにある日 本人墓地に、水夫源之助、富蔵、火焚(かまたき)峯吉の墓があるのだそうだ。 その碑文が『咸臨丸海を渡る』にあった。 「日本海軍咸臨丸水夫 讃岐国塩飽 広島青木浦 源之助 二十五歳」、「日本海軍咸臨船之水夫 讃岐国塩泡佐柳島 冨 蔵墓」、「安政七歳 三月晦日 日本九州長崎篭町蒸気方峯吉」。
王子製紙・藤原銀次郎の『松江日報』時代 ― 2019/05/09 07:29
王子製紙といえば、藤原銀次郎というわけで、「紙の博物館」の図書室に藤原 銀次郎関係の本を用意してくれていた。 ただ私が若い時に愛読し、今も折に 触れて参照している藤原銀次郎著『福澤先生の言葉』(実業之日本社)は、見当 たらなかった。 藤原銀次郎については、協会会員の植地勢作さんがバスの中 で、『松江日報』時代のことをプリントにして詳しく解説してくれた。 藤原銀 次郎は、戦前、王子製紙を東京電力に次ぐNo.2と評価される一流企業に仕立 て上げた人物だが、慶應義塾を卒業しての初仕事は、地方新聞『松江日報』の 主筆としての立ち上げだった。 明治23(1890)年から明治28(1895)年ま で、主筆として入社して、社長まで勤め上げた。 その5年余の苦労が後の大 経営者となる肥やしになったと万人が認めているところだが、いつしか『松江 日報』の経営に嫌気がさして逃げ出したという話が広まってしまったようだ。 植地勢作さんは、藤原銀次郎を研究する中で、人一倍責任感の旺盛な藤原が簡 単に逃げ出すはずがないという推論が正しいという確信を得たそうだ。
『松江日報』の発行部数も増加し、営業も楽になって山陰第一の新聞にまで 仕上げて、社礎が固まった。 それを契機に、当時の島根県知事、大浦兼武が、 藤原銀次郎の大胆不敵、才気縦横を愛し、中央政界に引き上げようとしたが、 義塾の同窓で同郷の鈴木梅四郎が三井の中上川彦次郎に推薦し、三井銀行に入 り、実業界で暮すことになったというのである。
藤原銀次郎は、その後、三井銀行管理下の富岡製糸所や王子製紙会社に支配 人として赴任、三井物産台湾支店長を経て、王子製紙会社専務となり、樺太の パルプ製造工場建設、朝鮮製紙創設などを推進した。 専務取締役社長として 富士製紙・樺太工業を合併、王子製紙は製紙、パルプ製造において独占的地位 を確立することになる。
なお、藤原銀次郎については、以前、下記を書いていた。
『福澤諭吉 慶應義塾史 新収資料展』<小人閑居日記 2017.8.14.>
藤原工業大学と高橋誠一郎文部大臣<小人閑居日記 2017.8.15.>
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