“ウィキペディアWikipedia”の「義経」2006/01/05 08:22

 インターネットのフリー百科事典“ウィキペディアWikipedia”というのが ある。 みんなで修正しながら、作り上げていくという考え方が、素晴しい。 一度、覗いてみたいと思いながら、なかなか行かなかった。 ようやくつない で、試みに「源義経」の項目を見てみたら、いくつかの新知見があった。

(1) 義経の正室の名は郷御前(河越太郎重頼の娘)、女子があり、名は亀鶴御前。  藤原泰衡が文治5年(1189年)閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義 経主従を衣川館に襲った時、義経は一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず 正妻郷御前と4歳の女子亀鶴御前を殺害した後、自害して果てたとされる。

(2) 義経には、亀鶴御前のほかに、男児一人、女児一人があった。 男児は愛 妾の白拍子静御前との子で、出産後間もなく鎌倉の由比が浦に遺棄された。  女児は、これより先、頼朝の挙兵前、奥州で数年を送っていた間に娶った妻 から生まれ、後に伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)に嫁いだ。

(3) 近年の研究。 菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書『源義経 の合戦と戦略―その伝説と実像―』(角川選書、2005年)で、頼朝との対立の 原因について、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、義経は頼朝の代官 として、平家追討という軍務と、朝廷との良好な関係を構築するという相反 する任務を遂行し、軍事・政治両面で成果を上げた。 つまり「政治的セン スの欠如」という評価も当らないという。 鎌倉政権内部には、発足当初か ら「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。 東国御家人は親京 都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。 このことが、 親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者である義経の失脚を招いたの である、とする。