初代堀越角次郎2006/01/12 08:08

 堀越角次郎(世襲名)の初代は、福沢の書いた墓碑によれば、旧名田島安平、 文化3(1806)年、上州群馬郡藤塚村(現高崎市藤塚町)に生れ、少年の頃から豪放、 14歳で市に出て繭の仲買をしたがうまくいかず、その後しばらく無頼の徒に交 わり、生家を逐われて江戸に出、公事師(他人の訴訟の世話をしたり、それを請 け負う)をしたが、わずかな日当で役人から軽侮叱責を受けるに耐えず、翻然と 商業に志し独立(福沢好みのところ)、古着小切れなどを背負って江戸市中を売 り歩く。 ある日、同郷旧知のマル文堀越文右衛門と江戸橋の上で会い、その 援助を得て弘化元(1844)年、本船町(『福澤諭吉書簡集』は日本橋伊勢町)に反 物店を開き、堀越角次郎を名乗った。

白石孝先生は自著『日本橋町並み商業史』で、この話はロマンチックすぎる ように思えるとして、堀越義雄の『風雪―堀越家のあゆみ』や『吉井町今昔史』 から、実際は次のようなものだったのではないかと推測しているので、講演に それを加味する。 上州吉井宿の旧家で在方の絹を商っていた豪商堀越文右衛 門は、十代目のとき、吉井藩の財政再建、借金一万両の整理に藩主の親戚紀州 藩の資金を導入し、紀州藩の御用達となり、吉井陣屋内に紀州藩の御用金貸付 所をつくったが、江戸への産物取り扱いを許され、紀州藩の遊金を西上州一帯 の産物の買入と江戸への販売に用いて、藩を潤すと共に、堀越家の財を築いて いった。 江戸への販売で織物問屋の手を経ずに直販で利益を増すため、天保 13(1842)年、堀越は本船町に江戸店を出す。 手代三名を「別家養子」として、 この店の支配をまかすのだが、その一人が堀越角次郎で、その後、手代二人は 吉井に帰り、角次郎一人が江戸店を経営し通旅籠町に呉服太物問屋を開く。 そ れと共に、堀越角次郎家が創立される。 この店は文右衛門の暖簾を引き継い だもので、マル文の商標も用いるが、あくまでも独立した経営で、文右衛門か ら5千5百両を借り、年に4百両の利息を払うことから出発するものだった。

 通旅籠町に移った後、開港後の横浜に支店を設け、杉村甚兵衛とタイアップ して舶来の織物を扱い巨富を築いた。 攘夷浪人の脅しにも屈しない剛毅の人 柄で、正規の教育は受けていなかったが洋学者の説に耳を傾け、また彼らの資 金を預かり利殖を図って生計を助けたと言われている。 福沢は「商家の信用 いかんを問えば、指を堀越家に屈せざるはなし」として、常に多額の金を預け ていた。 福沢が明治12年、外国為替取扱銀行の必要を感じて横浜正金銀行 の設立を企図し、大蔵卿大隈重信と事を諮ったが、出資者がなかなか集まらず 苦慮しているとき、福沢の話を聞いた堀越角次郎が60~80万円を出資するこ とにしたため(政府が100万円)、とんとん拍子に出資者が集まり開業すること が出来た。 上州気質の豪胆な人物で、福沢の『民間経済録』にある「実業人」 (後で述べる)の典型的人物だった。 明治12年隠居して再び安平と称し、明治 18年歿、享年80。