『交詢社の百二十五年』<等々力短信 第974号 2007.4.25.>2007/04/25 07:09

 執筆者の竹田行之さんから『交詢社の百二十五年―知識交換世務諮詢の系譜』 (交詢社刊・非売品)をいただいた。 交詢社には700頁を超す大冊『交詢社 百年史』があり、平成17(2005)年に創立125年を迎えた最近25年の『交詢 社現代史』もある。 今回のご本は、125年の歴史を通読できるように紙幅を 限りながら、最近の福沢研究の成果を取り入れ、交詢社の歴史像の再構築をめ ざしたものだという。 すこぶる面白く拝読したから、作者の意図は十二分に 達成されたと言えるだろう。

 第一に名文である。 「始造」「惑溺」といった福沢の用語がさりげなく使わ れている。 「始造」は創立準備の章の名に、「惑溺」は101頁の2行目に。  いろいろな時間に、銀座の裏通りのあちこちから、新交詢社ビルを見上げるこ とを、すすめている。 壁面ガラスの色は、設計チームによって穏かさの中に 強靭な意思を持つ「ジェントル・ウォームグレー」と名づけられたという。 福 沢諭吉が「西航手帳」に“Gentleman”の一語を書き込み、保守党と自由党の 議員が院外のクラブで歓談しているのを「サア分らない」と考えこんでから数 えて、ビル竣工の平成16年が141年、芝青松寺での発会式から124年、「思想 の核心が現代のかたちとして表現されたのだ」と、竹田さんは書く。

 第二に、歴史物語である。 とりわけ明治13年の発会から、北海道開拓使 官有物払下げ事件をへて、明治14年の政変にいたる、政府と交詢社の関係が まことに興味深い。 福沢が企図した知識交換世務諮詢(世の中の諸事を相談 する)「人知交通の一大機関」「知識集散の一中心」の交詢社は本来、伊藤博文 と井上毅(こわし)が恐怖するようなものではなかったのに、福沢諭吉という ひとりの人物がもつ思想の磁力と、そこに引き寄せられる人々への恐怖は肥大 化して、クーデターは断行される。 伊藤博文と大隈重信、井上毅と福沢諭吉、 欽定憲法路線と民約憲法路線、プロイセン型立憲体制とイギリス流立憲君主議 院内閣制の対立とその結末は、その後のこの国のかたちと歴史に大きな影響を 及ぼし、今日にいたっているのだ。 交詢社の存在は、大きかったのである。

 当初、地方にあっても有力なオピニオンと情報獲得の手段であった『交詢雑 誌』は、次第に、政変の結果福沢のもう一つの事業となった新聞『時事新報』 に取って代られるようになった。 福沢の歿後、交詢社は社交倶楽部として再 発足する。 福沢が「倶楽部」という語彙を使っていなかったという記述(49 頁)は新知識だった。

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