福沢の妻「おきんさん」2011/03/31 07:00

 そこで西澤直子さんの「福澤家の女性たち」の話である。 福沢諭吉の妻、 錦(きん)は、弘化2(1845)年(福沢の10歳下)禄高250石、役料50石の 上士土岐(とき)家に生まれ、13石二人扶持の諭吉とは身分違いの結婚だった。  身分だけでなく、父の太郎八は江戸定府だったので、錦は汐留の中津藩上屋敷 で生まれ、江戸風の中で育った。 福沢との成育環境は、かなり違う。

 福沢は男女は平等であるという考えから、毎回妻が玄関で夫を送り迎えする 必要はないと勝手気儘にする。 それは妻の役目と心得ていた錦は困り、最初 のうちは追いかけっこをしていたが、やがてあきらめたそうだ。 福沢は「お きんさん」と呼んで深く信頼し、心配なくこのように仕事ができるのも、また 財産がいくらかでもたまったのも、すべて錦のおかげだと、娘婿の清岡邦之助 に語った、という。 錦宛ての手紙(いつも一緒にいたので、わずかしかない) では、着物の始末や歯磨きの準備などを錦に頼れないことを嘆いていて、福沢 の普段の様子が知れる。 孫の回想によると、子供達への影響力は強く、諭吉 も頭が上がらなかったという。(あとで中上川(勇二?)さんの感想に、西川俊 作・西澤直子編『ふだん着の福澤諭吉』から、錦の母「(上士である)土岐のお ばあさま」)には、まったく頭が上がらなかったという話も出た。)

 長男一太郎が、アメリカ留学から帰国後の明治22年4月に結婚したが、新 妻は10月に突然実家に帰り、翌年4月離婚となった。 これに錦が激しく立 腹し、二男捨次郎あての手紙に、このように馬鹿にされ夜も眠れない、仲人の 近藤良薫(福沢家の家庭医の一人)夫妻も「大馬鹿」だとまで書いているそう だ。(『福澤全集』所収)

 経済活動の近代化には会計法の普及が不可欠と考えていた福沢は、自身の家 計にも簿記を取り入れて「家計簿」をつけていた。 毎月末には妻錦と差し向 かいで、その月の締めをしていたという(三女俊(しゅん)の回想)。 西澤さ んによれば、福沢が病気で倒れた後、簿記の知識が必要な、その「金銭出入帳」 を錦が書いて、その責任を果しているそうだ。

コメント

_ 近藤伸生 ― 2017/12/08 10:44

突然失礼いたします。近藤良薫のひ孫にあたる者です。良薫の妻は甲子(キネ)と言いますが、福沢家で育てられたと伝え聞いています。この辺の事情について、何かご存知のことがあれば、ご教示いただきたくご連絡いたしました。

_ 轟亭(近藤伸生様) ― 2017/12/08 15:00

ブログのコメント、拝見しました。『福澤諭吉事典』(慶應義塾)の
「近藤良薫」の項目はご覧でしょうか。「福沢の媒酌で中津出身の女性
と結婚した」と、だけあります。『福澤諭吉書簡集』に近藤良薫宛の
書簡が13通ありますが、ざっと見たところ一太郎の離婚問題が多く、
それ以前の近藤良薫自身の結婚については、言及がないようです。

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