大正という時代の大恋愛2014/07/06 04:53

 『柳原白蓮展』図録に「柳原白蓮とその時代」を書いた尾形明子東京女学館 大学教授は、白蓮が81歳で亡くなるまで45年間暮した目白の家で、長女の蕗 苳(ふき)さん、その長男黄石氏から、白蓮と龍介との間で取り交わされた700 通にものぼる書簡を見せてもらう。 そこからは歴史の中の出来事だったいわ ゆる「白蓮事件」が、あらたな貌をもってくっきりと浮かび上がってくるのを 感じたという。 1920(大正9)年、戯曲『指鬘外道』の出版の話で、東京帝 大生宮崎龍介が別府別邸を訪ねたことから、文通が始まり、世紀の大恋愛とな る。

 「ふたりは運命のように出会い、心惹かれ、愛し合うようになり、美し くも激しい恋文が積み上げられ、ついに自由にむけての出奔を決意する。」「と もに暮らすまでの二年間は、二人の予想をはるかに越えた苦難の日々だった。」  姦通罪のあった時代である。 燁子自身は、結婚し平民になってはいたが、生 家は華族令に触れる懼れもあった。

 「にもかかわらずなされた白蓮の行動は、世間を驚愕させた。それはまさに 幾重もの因襲を断ち切る新しい女性の自立宣言だった。」

「世間からの非難の嵐は「俗悪を極め」「文明的私刑の残酷」(芥川龍之介「柳 原白蓮女史」『婦人公論』大正14年2月)さながらであり、その間、白蓮を支 えたのは胎内で息づく命と、滔天、ツチを始めとする宮崎家の人々、そして九 條武子や村岡花子ら数少ない友人だけだった。」

 柳原白蓮の歌を引く。

和田津海の沖に火もゆる火の国に我あり誰そや思はれ人は

踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前

止まりたる時計の針も一度びは誠を示す時にあひなば

こゝこそは破滅の門(かど)と思ひつゝそとのぞき見て吾とたぢろぐ

思ひきや月も流転のかげぞかしわがこしかたに何をなげかむ

世の中のすべてのものに別れ来しわれに今更もの怖ぢもなし

岐れたるふたつの道を一つ得てあやまちぞとは誰がいひそめし

龍介との日々、長男の戦死と平和運動2014/07/07 06:34

 1921(大正10)年10月、燁子は『大阪朝日新聞』に伊藤伝右衛門への「絶 縁状」を発表して、行方をくらます。 その後、伊藤家との離婚交渉、兄の貴 族院議員辞職、幽閉の中で長男・香織を出産、華族籍からの除籍と、龍介と結 婚に漕ぎ着けるまで、約二年がかかる。

子とねむる床のぬくみのこゝろよさそこはかとなき花の香もして

 関東大震災後になって、ようやく目白の家での生活が始まるが、龍介は結核 で病床にあり、燁子が家計を支えることとなる。 貧しいながらも、初めて自 らの意志で生活できる喜びをかみしめながら、文筆活動にいそしむ。 1925(大 正14)年には長女蕗苳が生まれる。 1935(昭和10)年には歌誌『ことたま』 を創刊、主宰する。 義父・宮崎滔天の関係もあって中国やインドなどアジア の留学生を助け、龍介の関係で社会的弱者に手をさしのべた。 吉原から脱出 してきた女性を匿い、その自立を助け、龍介や日本労農党の岩内善作、賀川豊 彦、安部磯雄らとともに廃娼運動に関わった。

 早稲田大学から学徒出陣した長男香織は、終戦4日前、鹿児島串木野で空爆 によって戦死する。

空襲のさなかに蝶のあそぶ見てしみじみ人のおろかさに泣く

海みれば海の悲しさ山みれば山の寂しさ身のおきどころなき

夜をこめて板戸たゝくは風ばかりおどろかしてよ吾子のかへると

 翌1946(昭和21)年5月、NHKラジオで、戦争で子供を亡くした母親にむけ て、世界平和に立ち上がることを呼びかけ、「悲母の会」が結成される。 のち にこの会は「国際悲母の会」となり、世界連邦運動に発展、白蓮は婦人部の中 心となった。

 白蓮は1967(昭和42)年2月81歳で、龍介はその4年後の1971(昭和46) 年78歳で亡くなった。

末盛千枝子さんの「卒業五十年」2014/07/08 05:20

 当日記4月11日「末盛千枝子さんの「千枝子という名前」」、12日「同じ時 代の育ち」でご紹介した末盛千枝子さんの『波』連載「父と母の娘」だが、6 月号の第三回からは「卒業五十年」という題の文章になっている。 4月1日 の入学式に招かれてはいたが、多用でなかなか出席の決心がつかなかったのを、 そうだ、最初の一年を過ごした日吉のキャンパスに行って、あの「塾歌斉唱」 をしたい、という気持ちが突然わきあがった、という。 大学時代というのは、 まさに青春そのものだった、として、ご両親が出席された昭和35年の入学式 の思い出から始まる。 「当時の塾長は奥井復太郎という、いかにも学者然と して、厳しそうだったが美しい人で、式辞も格調高いものだった。父は、あの ような先生のおられる学校で娘が学ぶのだと感動していた。」

 それを読んだのは、ちょうど優勝をかけた早慶戦の一回戦の日だった。 私 は、末盛さんにメールを打って、富田正文作詞、信時潔作曲の「塾歌」を歌う と、涙が出そうになることがあり、毎年1月10日に三田である福沢先生誕生 記念会がおすすめだ、と書いた。 奥井復太郎塾長は、三田で一時限にあった 「都市社会学」を受講した。 江戸が東京に変わり、腰弁(サラリーマン)が 誕生してから、関東大震災のあたりまでの話だったのを、折に触れて(例えば、 落語を聴いていて)思い出す。 奥井さんの息子さんは、志木高の数学の先生 で主事(教頭)をなさっていた。 塾長が志木に来られた時、「ウチの泰夫」と おっしゃったので、われわれ悪童は「ウチの泰夫」と呼んでいた。

 脱線した。 末盛千枝子さんは入学後、カメラクラブとカトリック栄誦会に 入った。 カメラクラブは続かなかったようだが、カトリック栄誦会は末盛さ んに不思議な安心感を与えたという。 沢田神父という方が、静かだけれど強 い口調で「愛はすすめではなく、掟です」と言われ、全身を電気が走るようだ った。 キリスト教徒であるとはどういうことかを深く突きつけられた。 基 本的には愛なのだということを。 私は、以前から、幼いお子さん達を残して の末盛憲彦さんの突然死、ご長男の難病、再婚相手のご病気など、末盛さんの 度重なる苦難に対する強さのもとに、カトリックの信仰があるのではと考えて いたが、そのあたりがよくわかったような気がした。

 カトリック栄誦会の読書会で、会の先輩である遠藤周作さんが出版されたば かりの『聖書のなかの女性たち』や『おバカさん』を読んだという。 一年生 の初夏、『おバカさん』の感想を話し合っていた時に、上級生が、突然末盛さん に「トモエ」とあだ名をつけた。 作中、「トモエには男がわかっていない」と いう一文があった。 そのとき集まっていた上智大学構内の芝生の手触りを今 も鮮やかに思い出す、という。 それ以来、末盛さんは仲間から、「トモエ」と 呼ばれ続け、昨年亡くなった、二番目のご主人も最後まで「トモエ」と呼んで いたそうだ。

 私は、未読の遠藤周作著『おバカさん』を読んでみることにした。

『おバカさん』がやって来た2014/07/09 05:58

 遠藤周作著『おバカさん』の単行本が、世田谷区立中央図書館の保存庫にあ った。 講談社刊、昭和46(1971)年2月20日第1刷発行の昭和52(1977) 年3月22日第12刷、880円。 「おバカさん」、活字が小さいのに驚く。 8ポ イントだろうか、昔の文庫本の活字と同じような大きさだ。

 目さきがきく日垣巴絵は、東洋英和から進んだ目白の女子大で、あまり人の 勉強しないイタリア語とそのタイプと速記を必死で勉強し、卒業後イタリア人 のビュタフォコ貿易会社に、女の子には思いがけぬ二万円の給料で採用された。  勝気で、負けずぎらいで、チャッカリで、ソフィア・ローレンに似た上につん と向いた鼻を持つ現実派、株、マネー・ビルに興味があるらしい。 六つ上の 兄隆盛は、大手町のF銀行貸付課勤務、そのペンフレンドだったナポレオンの 子孫というガストン・ボナパルトがフランス船ベトナム号で横浜のメリケン波 止場にやって来る。 有名な映画女優ヘコちゃん、高峰ヒエコ夫妻も帰国した、 その船のムッと異様な臭いの四等マルセイユ・横浜間五万円で着いたガストン は、馬…、顔だけではなく鼻も長い、歯ぐきを見せてニヤッと笑った大口まで が馬の面にそっくり、知性のひらめきなど一片だにない間抜け顔なのだった。

 経堂の家に泊める。 隆盛は、大石内蔵助のこともあるから、バカかどうか わからない、というのだが、巴絵は到着早々ネマキにクツで町を歩くなんて非 常識だと怒る。 「いや、そこだて、あれは瑣事にコウデイせん海のようにふ かい男かもしれん。とにかく巴絵は昔から男を見る目がなかった。おれのよう な男の中の男を見る目がね……」

 ガストンは、東京見物に興味はなく、一日中、イヌさん、コドモさん、ハト さんを見ていたりする。 何のために遠い海をわたって日本に来たのか。 そ して、もっと多くの日本人を知りたいと、兄妹の家を出て行く。

 ガストンの生れたサボア地方では間のぬけた大男のことをポプラの木と呼ぶ。  ポプラの木はマッチ棒にするほかは木材にも柱にもできぬからだ。 ガストン のあだ名はポプラだった。 でもガストンは人間を信じたかった。 この地上 の人間がみんなナポレオンのように利口で、強い人ばかりではないと思った。  この地上が利口で強い人のためにだけあるのではないと思った。 自分のよう な、弱くて、悲しい者にも何か生きがいのある生き方ができないものだろうか ……。

修業の第一歩は、人間を信じる仕事2014/07/10 04:47

 ようやく渋谷の「宿泊 八百円 休憩 四百円」の「丘の上ホテル」に宿を見つ けたガストン、夜中にジェネラル・トージョーそっくりの男に追われた女を逃 がす。 「小便しよったんや、あのパンスケめが……」 日本語のショウベン には、娼婦が客から金をまきあげたあと、便所にいくと称してドロンをきめこ むという意味もある、と知る。 宿を追い出されたガストン、二時を過ぎた街 を歩いていて、先刻の女に会ってオデンをごちそうになり、川に沿って飲屋の 並ぶ路地のはずれの、占いの先生の部屋に泊めてもらう。

 元校長という川井蜩亭(ちょうてい)先生は言う、「今の日本に何が失われて しもうたか、よくわかりますたい。」「政治家は理想を信じんし、インテリは人 間を信じとりはせんですたい。悲しいことです。」「まだ人間を信じとるのは下 におる人間じゃ。あんたを昨日送ってきた女たちも、体を売ったり人のものを 盗ったりするが、根はバカでもお人好しで、情のある女子ばかり。真心という ものを持っとります。」「真心……あんた、この言葉を聞いても今の若い日本人 は感動もせん。そんなもんは世間をわたるのに通用せん無用なものと思うとる。 貧しい国の悲劇ですたい。ミスター・ガス、貧しいのは物じゃない、心の貧し い国が今の日本じゃ。」

 ガストンは考えた、「どんな人間も疑うまい。信じよう。だまされても信じよ う――これが日本で彼がやりとげようと思う仕事の一つだった。疑惑があまり に多すぎるこの世界、互いに相手の腹のそこをさぐりあい、決して相手の善意 を認めようとも信じようともしない文明とか知識とかいうものを、ガストンは 遠い海のむこうに捨てて来たのである。今の世の中に一番大切なことは、人間 を信じる仕事――愚かなガストンが自分に課した修業の第一歩がこれだった。」