戦争と殺し屋の関係2014/07/11 06:33

 インテリやくざの殺し屋、星野組の遠藤が、占師の川井蜩亭先生のかつての 教え子だった。 大学出で、軍隊時代に拳銃がうまかったから、星野組の中で も顔をきかしているが、肺病を病んでいる。 私には、すぐ黒澤明監督の『酔 いどれ天使』(1948(昭和23)年)の三船敏郎が目に浮かんだ。 ガストンは、 その遠藤の殺しの計画に巻き込まれてしまう。 遠藤に連れられて、山谷のド ヤ街に潜んで、ナミダ橋の職安の前にニコヨンの男たちがアリのように行列す るのを見たりする。

 遠藤の兄は学徒出陣し、戦犯になった。 ゲール・クリミナルと、大学でフ ランス語をやった遠藤はガストンに言う。 12年前、戦争が終わって、中学か ら霞ヶ浦の予科練に行っていた遠藤が、東京に戻ると、青山の彼の家は5月上 旬の空襲で焼け、両親と妹は神宮外苑に逃げようとして行方不明になったまま で、死体は発見されなかった。 親類に引き取られて、高校に通い、アルバイ トをしながら大学に進む。 大学に入った2年後、兄の消息がわかった。 島 の原住民を殺害した罪で、戦犯になっているが無実だと、手紙にあった。 8 月のある暑い夜、兄は処刑された。 遠藤が調べると、兄に罪をなすりつけた 上官が3人いることがわかった。 復員して、名を変えたりしていたが、よう やく居所をつきとめた、という。

巴絵が、日活ホテル地下のコーヒー店で、同僚の大隈青年と待ち合わせをし ていた、ちょうどその頃、近くのビルの工事現場で、ガストンを連れた遠藤が 工事の騒音にまぎれて、金井という男の額にコルトを向けていた。 二度、三 度、引金をひくが、カチリ、カチリ、むなしく、にぶく、バネがまわるだけだ った。 ガストンが弾をぬいていたのだった。 遠藤は、ガストンを殴る蹴る して、おれの今日までの辛さを知らずにやったのか、と涙を流す。

隆盛は、巴絵に言う「弱い、臆病な男が自分の弱さを背負いながら、一生懸 命美しく生きようとするのは立派だよ」「おれがガスさんが好きなのはね……彼 が意志のつよい、頭のいい男だからじゃないんだよ。弱虫で臆病なくせに…… 彼は彼なりに頑張ろうとしているからさ。」

 物語は、山形へと飛ぶ。 もう一人の上官、小林がいたからだ。 そこで起 る事件と、ガストンの運命については、『おバカさん』を読んでいただきたい。

なぜ多摩の五日市で憲法草案ができたか2014/07/12 06:36

 6月3日に「皇后さまと「五日市憲法草案」」、4日に「明治14年、日本の曲 り角」を書いた「五日市憲法草案」だが、昭和43(1968)年五日市(現、あ きる野市)の深沢家の土蔵で、色川大吉東京経済大学教授らによって発見され た、と書いた。 発見から2年、昭和45(1970)年に当時の興奮をよく伝え る本が出ていた。 色川大吉・江井秀雄・新井勝紘著『民衆憲法の創造―埋も れた多摩の人脈―』(「人間の権利」叢書6、評論社)だ。 この本も、世田谷 区立中央図書館の保存庫にあった。 第一部 埋もれた多摩の人脈(色川の講演 記録)、第二部 民衆憲法の創造(色川・江井・新井の共同研究)で構成され、 第二部には沢山の貴重な史料と解題が付属している。

 なぜ多摩に、私擬憲法草案を作成するような人たちがいたのだろうか。 三 多摩は明治26年までは、今の三鷹まで神奈川県に入っていたのだが、幕府の 天領の地域が非常に多く、伊豆韮山の江川太郎左衛門などの代官の支配下にあ った関係で、普通の藩とは違った特徴を持っていた。 八王子には八王子千人 同心がおり、とくに幕末期に官軍に抵抗して、甲陽鎮撫隊が日野から甲州街道 沿いに甲府にかけて戦闘配備され、多摩からかなりの農民隊が動員された。 明 治維新になって、薩摩や長州の地侍が江戸へやってきて政権をつくったが、文 化的には田舎者ではないか、自分たちは徳川幕府の臣のもとで長いこと江戸を 中心とした文化圏に住んでいたんだ、素直に新政府についていけない、新政府 なにするものぞ、という気概が、この地域には横溢していた、というのだ。

 色川大吉さんは、明治の文学者で思想家の北村透谷(1868~1894)を研究し ていた。 北村透谷は十代後半、八王子を中心に、川口、鶴川から小田原にか けてのあたりを放浪して、その思想形成期にいろいろな体験をしている。 そ の体験をよく理解しないと、北村透谷の本当の意味がわからないらしいという ところから、三多摩地方の研究に入ったという。

 調査を進めるうちに、透谷とは無関係の人で、しかも非常に興味のある人間 が、沢山いるということがわかってきた。 その10年ぐらいで、名簿の上で 300人ほどが、浮かんできた。 武士ではなく、一般の農民、商人、当時の言 葉で豪農、豪商といわれる、やや生活に余裕のある人々だ。 ただ仕事ばかり しているのでなく、その余暇に色々学問したり、青年に教えたり、あるいは遊 芸の道を修めるというような趣味人、文人であった。 そうすると、たとえば 南多摩郡だけでも、日本全体に紹介しても非常に面白い、ある意味で時代の特 徴をよく示していると思われる人物の名前が十数人上がってきた。 たとえば 北の方では、武蔵五日市の周辺に五日市グループとでもいうような青年グルー プがあった。 いわば本当の意味での明治人、幕末に生れ、明治の時代に教養 を身につけた、そして日本の近代国家が出来上がる頃に、自分も一人前になる というような青年のグループが、五日市にまず発見されたのだ。

五日市青年グループの学習法2014/07/13 05:35

 6月3日、「五日市の民権家たちは、勧能小学校訓導の千葉卓三郎(起草者と いわれる)を中心に学習結社、五日市学芸講談会に集い、私擬憲法草案の作成 に当った」と書いた。 その実際の様子は、次のようなものだとわかってきた。

五日市の青年たちは、仕事を終わると早ご飯をすませて、夜集まってくる。  冬なら炉端で議論する。 ただ議論してもしょうがないから、一人一人順番を 決めて、スペンサーの本やエミール・アコラスの『政理新論』、ミルの『自由論』 を読んできて、紹介する。 あらかじめ、賛成と反対の討論者を決めておいて、 幹事を中心に討論し、聞きっぱなし、しゃべりっぱなしにしないで、討論の後 には必ずしめくくりをする。 参加する会員全員の一人一人に発言を求め、出 席していて三回以上発言しないと、除名するという厳しい学習結社のルールが つくられていた。

そんな熱心な学習は、いったい何を目指していたのか。 色川大吉さんは、 彼らが江戸時代以来の日本の国のあり方や、明治政府のやり方に非常に不満を 持っていて、それに代わるような日本の未来像を描き出そうという情熱によっ て勉強が行われていたのではないか、という。 日本の将来あるべき姿を構想 していくと、憲法というものをつくらなければ、日本の進むべき道が定まらな い。

どんな議論をしていたか。 憲法に関するものが非常に多いけれど、死刑を 廃止すべきか認めるべきか、人民を武装させるべきか(民兵)、天皇に特別の権 利を与えていいか、皇居を東京から他へ移すべきかどうか、女帝を立てていい か、衆議院議員に給料を払っていいか、といった議論をしている。 なかには 面白い論題もあり、入れ墨を禁ずるのは正しいか、牛乳を飲むのは是か非か、 衛生上、襟巻を用いるのはいいか悪いか、甲という男が夫のある乙という女性 と道路において接吻した、その処分をどうすべきか、中学の教科書に政治書を 加えて良いか悪いか、などというのもある。 さらには、外国の資本を自由に 入れることの是非、外国の製品にもっと関税をかけて国内産業を守るべきか、 などと、議論は非常に具体的、生活的だった。 そうして討論をして賛成論と 反対論を十分闘わせ、どちらが優勢であったかを、議長が賛否を問うて判定を くだし、さらに疑問がある場合は、次の会に持ち越す。 つまり、相対立する 見解なり、思想なり、たがいに尊重し、認めながら一題一題討議し、その上に 立って一条一条かためていったのが「五日市憲法草案」であった、という。

「民権意識の世界文化遺産」2014/07/14 06:47

 明治13年、14年頃、全国各地で、「憲法草案」がつくられた。 交詢社の「私 擬憲法案」、植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」、板垣退助が率いた高知県土佐 立志社の「日本憲法見込案」などが有名だ。 「五日市憲法草案」は、そうし た東京の有名な学者が、ドイツやイギリスの憲法をモデルにして書いたという ようなものではない。 色川大吉さんたちが発見した深沢家の土蔵の埋蔵史料 によって、この地方における学習運動の実態がわかり、「五日市憲法草案」の創 造過程がはっきりしたのだ。

色川大吉さんたちが驚いたのは、深沢村の名主深沢家の土蔵から、おそらく 安政の終りか、文久ごろに筆写したと思われる英、米、仏、露などと結んだ外 交条約、日米和親条約、日英和親条約などが、出てきたことだ。 この地方は 天領が多く、代官江川太郎左衛門が進歩的で、幕末の段階で五日市地方にも農 兵隊を組織し、早くから西洋流の兵術や知識などを啓発していたのだ。 明治 になっても、先に見たように、反明治政府的な気分が横溢していた。 幕末の 条約を書き残しているというような精神が、受け継がれていなかったら、1880 年代という早い時期に、この地方で自由民権運動があらわれることはなかった だろう、と色川さんは考えている。 自由とか、人民の権利とかは、西洋伝来、 舶来のものと考え勝ちだが、実はペリー艦隊の出現以来、日本の民衆の中には うつぼつたるナショナリズムがすでに生れていた。 国際環境に対する非常に 感度の高い精神が目覚めていて、それが自分たちのもっとも身近な権利、自分 たちの人権を、政治への自由な参加を通じて要求した時に、ナショナリズムの 精神となって、よみがえってきている、というのだ。 この時の自己認識の助 けとして、ルソーやミルやスペンサーの翻訳書が読まれたのであって、精神そ のものは舶来ではない。 五日市地方における熱心な自由民権運動や学習活動 というものは、実は一千年間にわたった封建体制の農民に対する圧迫、これを 跳ね返して、人間が人間らしい生活を求めようとした根源的なエネルギーに、 19世紀後半の世界情勢が火をつけた、民衆のエンジンの始動に点火したもので あり、それだからこそ、あのようなめざましい昂揚を生み出したのだと思われ る、と色川大吉さんはいうのだ。

昨年10月の皇后さまのお言葉には、「近代日本の黎明期に生きた人々の、政 治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚え たことでした。長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育 っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないか と思います。」とあった。 日本の若い人々、中国の人々に、ぜひ学んでもらい たい文化遺産だ。

起草者、千葉卓三郎を追って2014/07/15 06:37

「五日市憲法草案」の起草者、最後に仕上げた千葉卓三郎という人物が、ど ういう人物なのか、初めは謎であった。 その探究をしたのが、当時の色川大 吉研究室副手・江井秀雄さんと卒業生の新井勝紘さんだった。 五日市周辺の 江戸時代の戸籍にあたる宗門人別改帳を探しても、「千葉」という姓はなかった。  文書の中から「千葉」に関するものをたんねんに拾い出し、筆跡鑑定をし、書 きぐせから、署名のないものでも、「千葉」の筆跡に違いないというものを選べ るようになった。 それらを検討して、どうも五日市の人間ではない、よそか ら来た男だとわかった。 たまたま、彼が五日市小学校(当時は勧能学校)の 助教員をしていたというヒントがあった。 しかし五日市小学校には古い文書 が残っていなかった。 開校七十周年記念のパンフレットから、第一代目の校 長が長沼織之丞という東北の仙台藩士で、仙台藩から二、三人ひきつれて、明 治6年頃この学校にやってきたことがわかった。

 それで江井さんと新井さんが仙台市役所へ調べに行った。 仙台は百万近い 都市だが、市役所は懇切丁寧で、それらしい千葉家は、岩手県の境にある志波 姫(しわひめ)という町と、一関市と仙台市に若干あることがわかった。 ま ず小さいところからと、志波姫へ行く。 着いたのが夕方4時近く、役場の人 はそろそろ帰り支度をしていた。 東北の人は愛郷心が強く、はるばる東京か ら研究者がやって来て、千葉卓三郎とかいうどえらい人間の研究をしている、 日本でも二番目か三番目に立派な憲法を書いた男だという。 退庁時間を延期 して戸籍係から助役まで、倉庫に入り込んで、明治の初めからの厖大な戸籍簿 をひっぱり出してきてくれた。 明治5年の壬申戸籍に、千葉宅三郎21歳、 平民、農民が発見された。 「卓」が「宅」だが、問題なかった。

仙台から一関へと役所の戸籍簿を追跡し、千葉宅三郎を調べていった。 戊 辰戦争では白河で激戦があったが、千葉は17歳で自ら志願して東北軍に加わ り、政府軍と戦った。 敗戦後、いったん郷里に帰ったが、藩はとりつぶされ ていて、明治4年そこを離れて、行方不明になった。

江井さんたちは、あきらめず追求を続けた。 子孫の一人が神戸にいるらし いということを手がかりに、80歳の千葉敏雄さんというお孫さんにたどり着く。  入院中の千葉敏雄さんに会い、千葉卓三郎のその後の生き方の記録や履歴書な どを借りることが出来た。 戊辰戦争に敗れた青年はその後、人生をどういう ふうに生きていったらよいか、精神的に非常に煩悶する。 そして当時仙台藩 に影響を持っていたニコライのロシアのギリシャ正教の洗礼を受けた。 お茶 の水のニコライ堂の辺にあった神学校で数年を過した。 しかしギリシャ正教 では、自分の精神的な解決がつかず、カトリックに転換して、ウイグルスやテ ストウィード神父などに影響を受けて、八王子周辺にあらわれる。 カトリッ クは、横浜、東京から八王子へ進出して、さらに五日市へと教線を伸ばしてい た。

千葉卓三郎は、カトリックにも満足できず、キリスト教を離れ、その最も厳 しい批判者である有名な儒者、安井息軒に学ぶ。 さらに横浜に出て、プロテ スタントのメソジスト派のマークレーにも接近し、医学も学んだ。 そこでも 何かをつかもうとしたわけだ。 そして最後に自由民権論にたどりついた。 数 年前から小学校の助教などをしていた五日市の地を、明治13年に永住の地に 定めるのだ。

「五日市憲法草案」の起草者・千葉卓三郎、自由民権運動の挫折も、明治日 本の発展が彼の企図したものと全く違った方向に進んで行ったことも知らずに、 残念ながら明治16(1883)年11月12日、わずか31歳でその多難な生涯を閉 じてしまう。