「自由が丘で出版社をするということ」2015/03/21 06:35

 7日は、ご近所の宮本三郎記念美術館で、ミシマ社代表三島邦弘さんの「自 由が丘で出版社をするということ」という講演を聴いた。 同美術館と地域の 会共催の「人ひろば」vol.28である。 「人ひろば」では、昨年の敬老の日に、 フェアレディZの生みの親・片山豊さんのお話を聴き、たまたまその日がお誕 生日でみんなで「ハッピー・バースデー」を歌ったことを、9月25日の「等々 力短信第1063号「105歳に聴く長生きの秘訣」に書いたが、その片山豊さん が残念ながら2月19日に亡くなられたことを新聞で知ったのだった。

 ミシマ社の三島邦弘さんについては、2012年10月27日のこのブログに「自 由が丘のほがらかな出版社」を書き、それに関連して内田樹(たつる)さんの 『街場の文体論』(ミシマ社)を読んで、その後6日間もいろいろと書き、こ の本の題名については、次のような生意気なことまで言っていた。 「『街場の 文体論』という題名は、『クリエイティブ・ライティング』か、『創作のコツ』 にしたほうがよかったのではないか。 副題を「「街場の」教授の最終授業」と でもして…。 “「街場の」シリーズ”の看板に縛られて、5万部ぐらいのセー ルスを失ったかもしれない、というのが下種の勘繰りだ。」と。

 三島邦弘さんは1975年、「等々力短信」創刊と同じ年の京都生まれの40歳、 京都大学文学部卒、出版社2社で単行本の編集をやったあと、31歳の2006年 10月、単身、自由が丘でミシマ社を設立した。 最初の会社は、20代前半の ある日、自分がダメになる、旅に出ようと思った。 辞表に「海外進出のため」 と書いたら、係の女性に普通書く「一身上の都合」でなくていいんですか、と 言われた。 旅先でお財布を盗られたりして落ち込み、前の上司がいた次の社 に入った。 単行本づくりは楽しかったが、会社の向いている方向性が自分と 違って、苦しかった。 ある日の深夜2時、新丸子のマンションの布団の中で 「自分で会社をつくっていいんだ」と、思いついた。 光のカーペットが見え た。 朝まで、アイデアを書き続けた。 「原点回帰」の出版社、毎日ミシマ 社、「一冊入魂」…。

 自由が丘の城南信用金庫の先、下にドーナツ・プラントのあったビルの一室 で、ミシマ社をスタートした。 そこでしか造れない一冊の面白さを追求し、 読者の方を向き、絶版にしない、「大きくしないことが目標」という「小商い」、 取次(東販、日販など)抜きで、書店を小まめに回って自ら卸す「直(ちょく) 取引」。 書店は、勝手に送られてくるのではなく、自ら目利きになって、仕入れたいと思って仕入注文するのが、フェアだと考えた。 16年前の当時から、 システムはいびつになってきていた。 内田樹『街場の中国論』を刊行する。  一年半で6人になってしまった。 ワンルームが酸素不足になるので、日々外 に出てもっぱらドーナツ・プラントで仕事をしていた。 自由が丘学園高校の そばに、築47年の一軒家、庭があって畳敷き、各部屋に水場のある元下宿屋 を借り、ここからミシマ社が動き出した。 丸い卓袱台を、学芸大学の古道具 屋で見付けてきて、座布団で囲む、ずっといたくなるようなくつろぎのある、 オフィスビルとは違う空間。 密閉性がなく、外より寒い、花粉も入る、いろ いろな意味で風通しがいい。 どこで働くかは、大きい。 自由が丘で出版社 というのは、初めてだろう。 出版の聖地だ。

 自由が丘の社のまわりは民家で、生活者と混然一体になっている。 市井の 一人一人の人間の言葉を、出版人は拾わなければならない。 勤めていた会社 は、ビルの11階にあって、見下すと、街を歩く人が小さく見えた。 これは 違う、出版社は本来、そっちに居なければいけないのにと、つくづく思った。  自由が丘は、いい町だ。 自由が丘は、身体が躍動する。 創業の地であり、 当時魂を込めてやっていたことを思い出す。(つづく)