津軽畸人伝「佐藤弥六「荒ぶる血」のDNA」2016/05/20 06:32

 佐藤きむさんから頂戴した林檎のお菓子、おきな屋の「薄紅(うすくれない)」 は美しく上品で、美味しかった。 紅玉を薄切りして蜜で加工するそうだが、 林檎1個から1~2枚ほどしか取れないという。 「薄紅」の封筒に、佐藤き むさんが『津軽学4号』(2008年・津軽に学ぶ会)に書かれた「津軽畸人伝 佐 藤弥六 「荒ぶる血」のDNA」が同封されていた。 それを拝読する。

 佐藤きむさんの祖父・佐藤弥六は、引用の『青森県人名大事典』(1969年版・ 東奥日報社)によると、天保13(1842)年~大正12(1923)年、弘前市代官 町で藩士佐藤甚内の二男として生まれた。 藩学で学んで俊才のほまれ高く藩 から選抜されて上京して海軍術を修業するかたわら福沢塾で英学を学び、また 横浜で商法を修業するなど、新しい時代の実用的学問を身につけて帰郷した。  幕末から明治にかけ国事に奔走して再び横浜に出、商法を修業するうちに実兄 の死にあい、やむなく帰郷して兄嫁と結婚、実家を継いだ。 身のふり方に迷 っていた士族に率先して養蚕やリンゴ栽培に手を染めるなど生活打開の先頭に 立った。 親方町に洋品店を開業、自ら店頭に出て客に応対し、青森に支店を 設けるほどにもなったが、郡会議員におされ、さらに明治21年県会議員に選 出されるにいたって産業振興に専念、『林檎図解』を刊行した。 その後は公職 につくことなく町の啓蒙的指導者として各方面の世話役の役割を果たした。  とくに藩史や地方史研究にも開拓的業績をのこし、その代表的著作に『陸奥評 林』『津軽のしるべ』があり、また藩の林政にも精通していた。 その子孫もそ れぞれ各方面に異色ある活動をした。

 「実兄の死にあい、やむなく帰郷して兄嫁と結婚」したとあるが、兄綱五郎 は二度結婚しており、先妻に長男、しなに長女があり、弥六は結婚と同時に、 清明・そわ異母兄妹二人の父親になったのである。 弥六としなの間に7人の 子が生まれたが、女の子3人が幼くして死に、成人したのは密蔵・洽六(紅緑)・ そで・そみの2男2女だった。 不幸にもそみが幼い時にしなが死亡、弥六は たみと再婚し、二人の間に生れたのが、そのと、きむさんの父毅六である。

 「その子孫もそれぞれ各方面に異色ある活動をした」ことで有名なのは、作 家佐藤紅緑とその子供の詩人サイウハチロー、作家佐藤愛子であろう。 異父 異母の兄弟たちの大家族である佐藤一族には、自分の我を押し通すという強力 なDNAがあって、代々周囲に迷惑をかけ続けてきた、と佐藤きむさんは書い ている。 佐藤愛子は、このDNAを「荒ぶる血」と名付け、大河小説『血脈』 を書いた。 サイウハチローは紅緑の長男だが、弥六が八番目の孫なので八郎 と名付けた。 後でよく数えたら九番目だったと、ハチローがラジオの「話の 泉」で語っていたそうだ。 (つづく)

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