会津出身の教育者・高嶺秀夫 ― 2019/05/12 08:03
高嶺秀夫(1854-1910)…教育者。 福沢諭吉の長女・里が嫁した中村貞吉 の妹、勢んの夫。 資料に戸籍謄本のコピーがあったが、協会の坂井達朗常務 理事がご親戚だからであった。 たまたま私は、中村仙一郎著・中村文夫編『聞 き書き・福澤諭吉の思い出―長女・里が語った、父の一面―』(近代文芸社)を 読んだばかりだった。
ウィキペディアによると、高嶺秀夫は1854年10月5日(嘉永7年8月14 日)(戸籍謄本は安政元年8月15日、安政への改元は嘉永7年11月27日(1855 年1月15日))会津藩士高嶺忠亮(ただすけ)の長男に生まれた。(戸籍謄本 は高嶺金右衛門長男) 藩校・日新館で漢学を学び頭角をあらわし、藩主松平 容保の小姓となり、会津戦争では藩主とともに籠城し、降伏した。 東京で監 禁謹慎、赦免後、沼間守一の私塾で英語を学び、斗南藩(旧会津藩)の命によ り、明治4(1871)年7月、慶應義塾に学び、5年間にわたり教員も務めた。 明治7(1874)年に福沢の推薦で文部省に出仕、派遣留学生としてアメリカの ニューヨーク州のオスウィーゴー州立師範学校に留学した。 ペスタロッチの 教育思想にもとづく生徒の自発性を重視する開発教育・教授法の教育学、博物 学、心理学、生物学、動物学(進化論)を学んだ。 帰国後は、教員となって、 アメリカで学んだ教育学を、東京師範学校(現筑波大学)に取り入れ、近代教 育の基礎づくりに貢献した。 同校始め、東京美術学校、東京音楽学校、東京 女子高等師範学校の各校校長を歴任した。 近代日本の美術の保護・奨励にも 大きな足跡を残し、シカゴ万国博覧会(1893年)への日本の展示等にも尽力し た。
日本における修学旅行は、森有礼の師範教育改革に、軍隊的要素が入ってい ることに抵抗した高嶺秀夫が、行軍旅行に学術研究の要素を取り入れて、修学 旅行と称するようになったのが始まりとされているという。 この修学旅行エ ピソードの高嶺秀夫は、4月4日放送のNHK「ネーミングバラエティー 日本 人のおなまえっ!」学校編に登場し、曽孫の土田健次郎さんが高嶺秀夫役を演 じたそうなので、ご覧になった方があるかもしれない。
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