王子製紙・藤原銀次郎の『松江日報』時代2019/05/09 07:29

 王子製紙といえば、藤原銀次郎というわけで、「紙の博物館」の図書室に藤原 銀次郎関係の本を用意してくれていた。 ただ私が若い時に愛読し、今も折に 触れて参照している藤原銀次郎著『福澤先生の言葉』(実業之日本社)は、見当 たらなかった。 藤原銀次郎については、協会会員の植地勢作さんがバスの中 で、『松江日報』時代のことをプリントにして詳しく解説してくれた。 藤原銀 次郎は、戦前、王子製紙を東京電力に次ぐNo.2と評価される一流企業に仕立 て上げた人物だが、慶應義塾を卒業しての初仕事は、地方新聞『松江日報』の 主筆としての立ち上げだった。 明治23(1890)年から明治28(1895)年ま で、主筆として入社して、社長まで勤め上げた。 その5年余の苦労が後の大 経営者となる肥やしになったと万人が認めているところだが、いつしか『松江 日報』の経営に嫌気がさして逃げ出したという話が広まってしまったようだ。  植地勢作さんは、藤原銀次郎を研究する中で、人一倍責任感の旺盛な藤原が簡 単に逃げ出すはずがないという推論が正しいという確信を得たそうだ。

 『松江日報』の発行部数も増加し、営業も楽になって山陰第一の新聞にまで 仕上げて、社礎が固まった。 それを契機に、当時の島根県知事、大浦兼武が、 藤原銀次郎の大胆不敵、才気縦横を愛し、中央政界に引き上げようとしたが、 義塾の同窓で同郷の鈴木梅四郎が三井の中上川彦次郎に推薦し、三井銀行に入 り、実業界で暮すことになったというのである。

 藤原銀次郎は、その後、三井銀行管理下の富岡製糸所や王子製紙会社に支配 人として赴任、三井物産台湾支店長を経て、王子製紙会社専務となり、樺太の パルプ製造工場建設、朝鮮製紙創設などを推進した。 専務取締役社長として 富士製紙・樺太工業を合併、王子製紙は製紙、パルプ製造において独占的地位 を確立することになる。

 なお、藤原銀次郎については、以前、下記を書いていた。

『福澤諭吉 慶應義塾史 新収資料展』<小人閑居日記 2017.8.14.>

藤原工業大学と高橋誠一郎文部大臣<小人閑居日記 2017.8.15.>