渋沢史料館・渋沢栄一と福沢諭吉〔昔、書いた福沢137〕2019/10/24 07:12

     王子飛鳥山公園の渋沢史料館<小人閑居日記 2002.5.6.>

 4月20日(土)福沢諭吉協会の一日史蹟見学会で、王子の渋沢史料館へ行 った。 日本に近代的経済社会を築いた渋沢栄一(天保11(1840)年- 昭和6(1931)年)の91年にわたる生涯と、関係したさまざまな事業、 多くの人々との交流などを示すいろいろな資料が展示されている。 何を隠そ う、実は私、学校を出てしばらく渋沢栄一の作った銀行(今や、その名は全く なくなり、システムのトラブルなど起こしている)にお世話になって、いわば 「渋沢の丁稚」だったご縁がある。

 この史料館が建つ飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が明治12(1879)年 から亡くなるまで、初めは別荘として、後には本邸として住んだ「曖依村荘(あ いいそんそう)」(最盛時8,500坪)で、住居など主な部分は昭和20(1 945)年4月の空襲で焼失したが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬(ば んこうろ)」と「青淵(せいえん)文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部と ともに保存されている。

 史料館を見学、福沢諭吉の渋沢栄一宛明治26年10月31日付書簡(アメ リカのボストンヘラルド新聞社主ハスキルと同紙記者1名が福沢宅を来訪する ことになっていて、一席設けるので、一緒に面白い話でも聞かないかという誘 い。 渋沢宛福沢書簡現存3通の内1通)を見せてもらう。 史料館では、石 井浩副館長のお話を聞き、展示物のご案内も頂いたが、渋沢栄一述、石井浩解 説の『雨夜譚 余聞(あまよがたりよぶん)』(小学館)を、当日ちょうど持って 行った私は、ちょっと石井さんとその話をした。 「青淵文庫」は、保存のた めの作業中で入れなかったが、栄一喜寿記念に清水組(現清水建設)から贈ら れ、内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用された田辺淳吉設計 の「晩香廬」は、きれいに整備された内部も見せてもらうことが出来た。

 庭園の丸い芝生は通路と段差があり、インドの詩聖タゴールなどの賓客来訪 時の映画や写真では、身長150センチほどの短躯であった渋沢栄一が、皆高 い所に立っているという話だった。

       「渋沢栄一と福沢諭吉」<小人閑居日記 2002.5.7.>

 4月20日渋沢史料館を見学した後、王子駅近くの「北とぴあ」で昼食し、 西川俊作福沢諭吉協会常務理事の「渋沢栄一と福沢諭吉」という講演を聞いた。

 渋沢と福沢は、必ずしも親密とはいえないけれど、さきほど見た渋沢史料館 蔵の福沢書簡のほか、明治12年8月29日付の書簡は、福沢が王子の別荘披 露パーティーへの招きに応じて参上するという内容で、折に触れての交流はあ ったことがわかる。

 西川さんの配られたレジュメには、中津藩の銀札と一橋領の藩札のコピーが あった。 紙幣経済について、福沢の『通貨論』(明治11・1878年)と渋 沢の『雨夜譚(あまよがたり)』からの話があった。 中津藩では藩札が使われ ていた経験から、福沢は「お札」論者で、管理さえ良ければインフレは起こら ないとして、『通貨論』では大隈重信の提灯を持つ形になった。 渋沢にも、一 橋家の勘定組頭になってその財政再建に当った時、播州の領地に産する木綿の 買い上げに一橋の藩札を発行して、その流通に成功した経験があった。 この ように、明治日本の近代化の進展には、江戸期の経験の Carry-over(持越し)、 「大いなる遺産」があった。

 福沢と渋沢が直接関わったのは、日清戦争の義捐金の問題があった。 福沢 は、これに積極的で運動を起こし、渋沢、三井八郎右衛門、岩崎久弥、東久世 通禧(みちとみ)と5人で発起人になり、「報国会」を作って軍費醵集を始める ことにした。 その矢先、政府が5千万円の軍事国債(それも利付き)を発行 することにしたので、「報国会」のメンバーでも、そちらに振替ようとする者が 続出し、「報国会」は解散することになる。 福沢はそれならばと、独自に『時 事新報』で軍費醵集を開始、率先して私金1万円(今の1億円以上か)を出し 範を示した。   福沢と渋沢がお互いをどう見ていたか、福沢は『時事新報』の社説「一覚宿 昔青雲夢」(明治27.6.11.)で、官尊民卑の気風が最も盛んな時代に、 大蔵省高官を辞めて、民間で実業に従事し、今日、天下に一人として日本の実 業社会に渋沢栄一あることを知らない人のいないに至らしめたことは、非常の 栄誉である、氏は実業社会の泰斗であると褒め、人々が政治以外の功名に心身 を労するようにと勧めている。 渋沢は、大蔵省時代、福沢に度量衡のことを 教えてもらいに行ったことがあった、福沢は国家観念の強い人で、自分のこと を公共的商売人とわかってくれたなどと書いているそうだ(大正6年・平凡社 『渋沢栄一全集』第三巻「福沢先生及び独立自尊論」か?)。 ほかに明治45 年の『青淵百話』には、「独立自尊を駁(ばく)す」という、きつい文章もある そうだ。

 西川さんも、「競争論または経済と道徳」という項目で取り上げられたが、渋 沢と福沢の決定的な違いは、儒教に対する態度だったろう。 日本の近代化に 同じような貢献があったにもかかわらず、親密な交際がなかったのも、そこに 原因があるのだろう。 福沢は儒教に対して極めて批判的であったが、渋沢は 終始一貫して『論語』をもって内外公私の行動の基準にしたのである。 『論 語と算盤』という著書があることは、それを端的に物語っている。