福沢諭吉と『蘭学事始』〔昔、書いた福沢136〕2019/10/23 07:14

       福沢諭吉と『蘭学事始』<小人閑居日記 2002.5.5.>

 明治23(1890)年4月、第一回日本医学会総会が開催された時、明治 2(1869)年1月に出版された杉田玄白著『蘭学事始』を再版して会員に 配った。 その再版本の序文を福沢諭吉が書いている。 それによると、『蘭 学事始』の原稿はもともと杉田家に一本蔵せられていたが、安政2(185 5)年の江戸の大地震の火災で焼失してしまった。 ところが、医友・門下生 のなかでも、それを謄写したものはなく、深く残念に思い、焼失の不幸をなげ くだけだった。 しかし旧幕府の末年に、福沢の友人神田孝平(たかひら)が 本郷通の聖堂裏の露店で、偶然その写本を発見した。 それで、学友同志輩は みな争ってこれを写しとり、にわかに数冊の『蘭学事始』が出来た。 その気 持は、もうこの世にはいないと思った友達が、再生したようだった。 当時そ の写本を得た福沢は、親友箕作秋坪と向いあってすわり、何度も繰り返して読 み、『ターヘル・アナトミア』に打向い「艫舵なき船の大海に乗出せしが如く 茫洋として寄る可きなく唯あきれにあきれて居たる迄なり」というところから あとの一段に来ると、ふたりとも感涙にむせび、言葉も出ないでおわるのが常 だった。 明治元年、王政維新で騒然とする中、福沢は玄白の子孫杉田廉卿 (れんけい)氏を訪ね、あなたの家の『蘭学事始』はわれわれ学者社会の宝物 である、いまこれを失っては、後世、子孫がわが洋学の歴史を知るすべもな く、また先人の辛苦されて、われわれ後進のためにされた偉業大恩を空しくす ることになる。 このような騒乱の中でも、ひとたび出版しておけば、保存の 方法としてこれより安全なものはない、その費用のごときは自分が出させても らうからと勧めて、出版されたのが明治2年1月刊行の版本『蘭学事始』(天 真楼=杉田家、蔵版)上下二巻である、と。

 今日われわれが『蘭学事始』を読んだり、教科書などでその内容を知る機会 がある陰には、福沢の働きがあったのだった。 富田正文先生の『考証 福沢 諭吉』によると、当時の福沢は後年のように富裕ではなく、わずかに『西洋事 情』によって少し生活にゆとりを生じた程度の折のことだったという。 『現 代文 蘭学事始』(岩波書店)の緒方富雄さんの解説によると、神田孝平が見 つけた写本も、それを写し明治2年に出版されたものの原稿(慶應義塾所蔵 本)も、表題は「和蘭事始」となっていた。 その原稿に、福沢が朱筆で「蘭 学事始」と訂正しているという。 緒方さんは、これを福沢の勇気ある決断、 独断と推定し、適切なものであったといっている。 神田発見以前の古い写本 も「和蘭事始」や「蘭東事始」で、「蘭東事始」が多いというが、やはり「蘭 学事始」の方が意味がわかりやすい。 福沢のこの朱は、俳人が素人俳句をほ んの一字か二字添削して生き返らせるのに似て、大ヒットだったのではないだ ろうか。

 緒方富雄さんは、福沢の「『蘭学事始』再版序」の歴史的意義を、こう結論 する。 「福沢の明治二年の『蘭学事始』復刻、明治二十三年の「再版序」の 発表などによって、その後の『蘭学事始』の普及・研究の根幹ができたこと は、あきらかである。 福沢の透徹した啓蒙の功績といいたい。」「福沢は 「再版序」のおわりに、この『蘭学事始』の意義についてまことに的確に、日 本の今日(当時)の進歩は、偶然のものでなく、それよりさきに杉田玄白ら先 人の功があってのことである、と指摘し、それは万国の人に示すに足るもので あって、単に医学上のできごとの記述にすぎないとしてはならないと警告して いる。 福沢の見識がかがやいている。」