米空軍謀略ビラの福沢諭吉<等々力短信 第1140号 2021(令和3).2.25.>2021/02/25 07:07

 永井荷風が戦中戦後にわたって書き継いだ小説「問はず語り」を筆頭に、 戦争直後の世相、戦禍を生き抜き、新たな生活を始めた人々を描いた、短編 小説や随筆を収録した岩波文庫『問はず語り・吾妻橋 他十六篇』を読んだ。

 戦死したと思われていた兄が復員し、弟と結婚していた兄嫁がどうしたか の「噂ばなし」や、「買出し」の話もある。 敗戦4か月後の随想「冬日の窓」 には深く感じる所があり、永井荷風が、私の子供の頃に新聞報道などで感じ ていた、ただの「スケベ爺ィ」ではなかったことを知った。

 改めて永井荷風の日記『断腸亭日乗』で、その頃を見ていたら、昭和20年7 月31日に「見聞録」として、大阪市中で拾われたアメリカ軍のビラの文が写 してある。 「日本の偉人よ何処(いずこ)にありや。日本は自由の何たるか を理解した人々に依って強大を致したのである。「国家の独立はその国民の独立 より」と喝破した福沢諭吉氏、その著書「思想と人格」において自由の定義を 下した深作安文博士、多年議会政治の闘士として令名を馳せた尾崎行雄氏、刺 客に襲われた時「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫した板垣退助氏。この人 たちによって昔の日本には「自由の国家のみがその強大を致し得る」という事 実がよく理解されていた。昭和十一年に尾崎行雄氏が「世界の趨勢に逆行し軍 国主義の旧弊を固守し、あたかもそれが国に最も忠なる所以(ゆえん)である が如く考えることは、決して国に忠でもなく又自らを愛する所以でもない」と 叫び得たのが、恐らく最後であろう。軍閥がその発言の自由を拘束し荒木の如 き人間が日本を軍事的敗北に導いたのである。現在の事態は日本を破滅に導い た軍部指導者の採った理論が誤謬であって尾崎氏の如き人々が正当であった事 を立派に証明している。言論の自由と自由主義政府とを再び確立することが日 本の将来を保証し得る唯一の道である。」

 西川俊作先生の『福沢諭吉の横顔』(慶應義塾大学出版局・1998年)に「米 軍伝単―自由主義のすすめ」の章がある。 本土空襲もたけなわの昭和20年2 月半ばからアメリカ軍は、日本国民の心理攪乱、戦意阻喪を目的とした謀略伝 単(宣伝ビラ)を全国各地の上空から多種大量に散布した。 このビラの写真 版を見ると、表側に福沢、裏側に尾崎行雄の肖像がある。 撒かれた場所は、 警視庁の記録では葛飾(6月15日)、立川、板橋、麹町、丸の内、築地、坂本 の各署管内となっている。 私の知らなかった「深作安文」を、西川先生も調 べている。 『学問のすゝめ』第三編の「一身独立して一国独立する事」によ るこの文面のほか、初編冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」 を引用した天賦人権論ビラもあったらしい。 子供の頃、NHKラジオ「人権 の時間」は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で始まった。

松沢弘陽著『福澤諭吉の思想的格闘』2021/02/25 07:10

 松沢弘陽さんの三十数年にわたる福沢研究を集成した『福澤諭吉の思想的格闘 生と死を超えて』(岩波書店)を読み始めている。 第I部「福澤諭吉の西欧体験」は、『福翁自伝』でも少し触れられている、福沢がイギリスで受けた衝撃的な経験を検証したものである。 幕府の遣欧使節団の随員として、ロンドンに滞在中、使節団に文書が届けられた。 ある「社中」に属する英国市民が、自国の高級外交官が他国(日本や中国)で行った理不尽な振る舞いを批判し、罷免を求めて女王陛下に提出した「建言書」である。 そういう行為が市民によって行われ、政府もそれを咎めないという事実に、福沢は強い衝撃を受けて、後に『福翁自伝』に「ますます平生の主義たる開国一偏の説を堅固にしたことがある」と書いた。

 これについては、2006年3月25日の福澤諭吉協会の土曜セミナーで松沢弘陽さんの「福沢諭吉とmid-Victorian Radicalism -『福翁自伝』を手がかりに」を聴いて、3月30日から4月1日のこの日記に書いていた。 別に、薩英戦争でイギリス軍艦が鹿児島の市街地を焼いたことが、ニューヨーク・タイムズやイギリス議会で問題になったことも、吉村昭さんの『生麦事件』(新潮社)や皆村武一さんの『『ザ・タイムズ』にみる幕末維新』(中公新書)によって書いていた。 それをまず四日にわたって、引かせてもらう。

   ショーロジ・カラウスヘーの建言書<小人閑居日記 2006.3.30.>

 福澤諭吉協会の土曜セミナーでは、松沢弘陽さんの充実した話を聴けた。 丸山真男門下で(一番上の方という)、ずっと北海道大学法学部教授を務め、1980年の『福澤選集』では第1巻の解説を書いている福沢研究者、現在は福澤協会理事。 難しい話かと心配していた(小泉仰さんの前回は、大学の高踏的な講義のような話に閉口して、日記に書けなかった)のは、杞憂だった。 「福沢諭吉とmid-Victorian Radicalism -『福翁自伝』を手がかりに」。

 『福翁自伝』の「欧洲の政風人情」という小見出しの所に、遣欧使節で滞在中のロンドンで、ある社中の英国人が議院に建言した草稿を日本使節に送ってきた話が出てくる。 その建言書の趣旨は、英国公使オールコックが新開国の日本で、あたかも武力をもって征服した国民に対するような乱暴無状の振る舞いをしていると、いろいろ証拠をあげて糾弾するものだった。 福沢はこの建言書を見て「大(い)に胸が下(が)った。成るほど世界は鬼ばかりではない、是れまで外国政府の仕振を見れば、日本の弱身に付込み日本人の不文殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛けて真実困(まっ)て居たが、その本国に来て見れば〔自から〕公明正大、優しき人もあるものだと思て、ますます平生の主義たる開国一偏の説を堅固にしたことがある」というのだ。

 松沢弘陽さんは、その建言書と建言した人の探索を始める。 原文は発見できなかったが、木村芥舟『三十年史』508-520頁と、福沢の上司の「福田作太郎筆記」(東大史料編纂所蔵)に、建言書二通の翻訳があった。 「ニューカストル外国掛役人 ショーロジカラウセー」「ニューカストル外国管事公会頭取 ショーロジ、カラウスヘー」による、英国政府が中国と日本に出している官憲、外交官の非道に対する、国際法にもとづく執拗な糾弾だった。 それは現地情報と外交文書によっていて、出先外交官の弾劾と不当な政策の撤回を要求していた。 軍事力の威嚇によって結んだ条約を非難し、国際法はヨーロッパの内ばかりでなく、外でも適用されるという考え方によっていた。

 松沢さんは、ロンドンでも調査して、ついにGeorge Crawshay(1821-96)と、Foreign Affairs Committeeに、たどり着く。