長崎の二十六聖人像と舟越保武さん2023/04/25 07:00

 昨日のリストの中から、市原湖畔美術館の「末盛千枝子と舟越家の人々」展のオープニング&トーク「舟越家の芸術」で、北川フラム館長が最高の作品と語った舟越保武さんの≪長崎二十六殉教者記念像≫のことを書いた「等々力短信」と、舟越保武さんが亡くなられた頃の「小人閑居日記」(ブログでは読めない)を引いておきたい。

      長崎の二十六聖人像 <等々力短信 第844号 1999.6.5.>

 連休中の5月4日、ASAHIネットの「絵本と童話の部屋」の「すえもりブックス本を見る」オフを、友人経営の等々力の寿司屋の2階で開いた。 メンバーの一人が、「すえもりブックスの本はいいと思うのだけれど、手持ちは一冊しかない、どうしても、子供に読み聞かせるのに定番の絵本を選んでしまうので、自分のためや大人の友人に贈りたいような本は後回しになる」と書き込んだのに、私が手元に沢山すえもりブックスがあるので見ますか、と応えたのが発端となった。 この会の計画を末盛千枝子さんにお知らせしたところ、幸運にも、ご本人が来て下さることになり、当日は皇后さまの『橋をかける』が出来るまでの秘話など、末盛さんの貴重なお話が伺えて、素晴しい会になった。

 その会で校正刷りを拝見した高橋睦郎さんの『日本二十六聖人殉教者への連祷』が、本になった。 「連祷(れんとう)」は、祈祷の形式のひとつで、選ばれた言葉を連ねイエズス・キリストや聖人をほめ讃える、一人が先導し、会衆が折り返しをもって応えるものだそうだ。 本では、右のページに高橋さんの連祷が、左のページには長崎二十六聖人記念碑を彫刻した舟越保武さん(末盛さんの父上)が、制作にあたって描いたデッサンが配置されている。 連祷は総ルビなので、声に出して読むと、感動が喉から頭の後ろの方へと響いてくる。 色はといえば、右ページ上の26のローマ数字の赤だけで、これが美しい。 このセンスは、末盛千枝子さんならではのものである。

 (この本では「祷」の字が、ネ扁でなく、示扁になっています。 私のワープロの辞書にないので「祷」を使いました。)                

 26人は豊臣秀吉の治下、慶長元年(1597)、西暦で1月9日からの厳冬の28日間、堺から長崎までの苛酷な連行の後、2月5日に西坂の丘で十字架にかけられた。 第一の十字架、聖フランシスコは大工、高橋さんの連祷に「酒徳利を持って牢番を訪ね 入牢を願って 断わられたが ひるまず長崎への受難の道行を追い ついに殉教者の列に加えられ」た。 第二の聖コスメ竹屋は刀研ぎ師、第七の聖パウロ茨木は樽職人。 第九の聖ルドビコ茨木は、殉教者中で最も若い12歳、その隣の聖アントニオは13歳、第二十の聖トマス小崎は16歳、26聖人像の中で、この三人だけが背が低い。

 舟越保武さんは、この像の制作に作家生命を賭け、全力を尽くしたと『巨岩と花びら』(筑摩書房)に書いている。 没頭した4年半の間、アトリエに寝たという。 「貧苦に耐えて」ともある。 お子さん方にも、深い思いのある像なのだろう。

      美しく光っているもの<小人閑居日記 2002.2.7.>

 舟越保武さんがなくなったと聞いて、『巨岩と花びら』を、ぱらぱらとめくる。  1982年5月に書かれた「あとがき」に、もう「いま私は、生涯の終点近くを歩いていることがわかっているだけに、やがて現世からストーンと墜落することがわかっているだけに、過去のさまざまの出来事を懐かしむ気持が強くなっているのでしょう」とある。 そして「過ぎ去った「時」の中に、美しく光っているものを、繰りかえして思い出します」として、「私の歩いて来た一本の道をふりかえると、遥か遠くから、いま私のいるところまで、電柱の灯りが、並んで点滅しているように見えます。 青く光るものもあり、暗くて鈍い光りもあります。 小さくまばたくその灯りを書こうとするのですが、それがなかなか文字にはなってくれないのです」

 世田谷のお住居のご近所を、犬をつれて散歩される。 そのコースに中野重治さんが住んでいて、ひいらぎの生垣などを手入れしていたり、道ですれ違ったりする。 一度声をかけたいと思うのだが、なかなか切り出せないという随筆「ひいらぎの生垣」が、いかにも舟越さんらしくて、いい。

 「あの……失礼ですが、中野先生ですか」

 「私は、松本竣介の友人で、舟越というものです。 この近くに住んでいます。 彫刻をやっています」

 「私は彫刻家で、だいぶ前に長崎に、二十六聖人の彫刻を作った者です」

 「私は、先生のお書きになったものを、読んで、尊敬いたして居ります」  「先生の詩を少し覚えています。……千早町三十番地、という詩です。 千早町三十番地はどこなりや……という書き出しの詩です」

 等々、こんど会ったら、きっとそうしようと、犬に話しかけながら、くりかえし、くりかえし、口の中で練習していたけれど、急に声をかけては、中野さんの心を乱すのではないか、中野さんの思考の静かな池に、さざ波をたてることになりはしないか、と小学生のように、尻込みする。 そして、ある日、中野さんが亡くなってしまう。

 天国の門では、松本竣介さんと中野重治さんが、きっと舟越保武さんを待っていただろうと思う。

      長崎26聖人の殉教日<小人閑居日記 2002.2.12.>

 舟越保武さんのご長女、すえもりブックスの末盛千枝子さんに、お悔みの言葉とともに「美しく光っているもの<小人閑居日記 2002.2.7.>」をお送りしてあった。 昨日、メールが来て、「父が亡くなったのは、26聖人が殉教したその日でした。 最高のご褒美を頂いたようでした」とあった。 長崎26聖人の殉教は、慶長元年(1597)の2月5日だった。(「等々力短信」第844号、『五の日の手紙4』330頁参照)

 6、7年前に、舟越保武さんと佐藤忠良さんの60年に渡る友情(とライヴァル関係)を描いたNHKテレビの番組があった。 録画してあったので、たまたまそのビデオを見たら、忠良さんが、長崎へ行って初めて26聖人像を見るところがあった。 「負けたね」と言って、46歳から50歳までの一番脂ののりきった時期の仕事だというコメントに、「そうでしょう、僕もその頃は…」と言った。

 舟越さんの、忠良さん宛の手紙が素晴らしい。 舟越さんが脳硬塞で倒れ、退院した直後に左手で書いた一生懸命の手紙を、忠良さんは大切に表装していた。 それは、良寛の書のようだった。

等々力短信 第1166号は…2023/04/25 07:07

<等々力短信 第1166号 2023(令和5).4.25.>絵本が生まれたとき は、4月18日にアップしました。 4月18日をご覧ください。