九十年以上を生きる。「ディンギー」と風。2023/08/09 06:53

   春愁や飽くほど生きて厭きもせず   岩本桂子

 季題は「春愁」、虚子編『新歳時記』増訂版には、「春といふ時節には、誰の心も華やかにうきうきとなる一面、一種の哀愁に誘はれるといつたやうな氣持がする。何となく物憂くて氣が塞ぐのをいふ。」とある。 「飽く」と「厭き」、愛用の(と、いっても、最近はあまり見ないのだが)武部良明さんの、角川小辞典『漢字の用法』を見る。 [飽]物事に十分に満足すること。 [厭]物事を続けて行うのがイヤになること。 <九十年変わらぬものに花の散る>のを見てきた作者は、九十年以上を生きてきたことに、十分に満足しつつ、なお、生きていることがイヤにならない、というのである。 それは、<老いて尚何かあるごと春を待つ>だけでなく、<いそいそといふことのあり春ショール>となるのである。

   ディンギーの覚束なくも風つかみ   石山美和子

 ぼんやりの私は、石山美和子さんが、渋谷句会はもちろん『夏潮』編集・運営全般でお世話になっている児玉和子さんの姉上だということを知らなかった。 鵠沼のお住まい、お育ち。 「ディンギー」は、キャビンのない小型ヨット。 私は「ディンギー」を知っていた。 石山美和子さんと同年生れの兄が、海洋研究会というクラブに入っていて、葉山の鐙摺や久留和で合宿して、ヨットに乗っていた。 それで高校生だった弟の私をディンギーに乗せて、風上に向ってどう走るのか、タックやジャイブ、風下にランニングだのと、やってみせたのだった。 まさに、「覚束なくも風つかみ」だった。
 <撫子は傘寿の今日の誕生花>で、お誕生日は9月4日とわかる。 その5日後に生れた兄は、残念ながら、傘寿にはほど遠く、67歳という若さで亡くなってしまった。