「女衒」「初見世」「貸座敷」2011/02/05 07:02

 『明治吉原細見記』から、つづき。 まず「女衒(ぜげん・「衒」は売る意)」、 本人は「世話人」、一般には「周旋業」、貸座敷*(楼、廓)では、「判人(はん にん)」と呼ばれていた。 やさしい顔立ちで、人好きのする人柄だったとか、 「きれいな着物を着て、おいしいものを食べて、ただお酒の相手でもしてれば いいのだから、こんな楽な仕事はない」、そんな、うまいことを言って、何も知 らない女の子を信用させてしまう。

 初めて客をとることを「初見世」といった。 この夜から、苦しく、辛い日々 が始まる。 来る日も、来る夜も、針のむしろの責め苦に泣いて、なんとか開 き直った強さを得るまで、半年はかかるという。 朝のうちに髪を結い、それ から一休みする。 午後三時ころ起きて御飯を食べて、風呂に入る。 化粧部 屋でお腰巻(こし)一つになって化粧し、着物を着る。 長襦袢、伊達巻、上 襟(うわえり)、裲襠(しかけ)と、どれも赤い派手なものばかり。 したくが 出来ると、楼主に「初見世」に出ます、と挨拶する。 蕎麦が配られる。 楼 主は、「一生懸命働いて下さい」と言う。 「働く」ということがどんなことを 意味しているかを考えれば、奇妙な世界だと思う、と斎藤さんは書いている。

 店先に奉書紙を五枚つないだ縦紙に「初見世○○」と看板がかかげられ、そ れが一か月つづくという。 吉原に身を沈めたといっても、この「初見世」ま では、まだこの世界の実相がわからず、この夜に、初めてその辛さを体験する。  多くの娘は、この日から「死のう」と思い、女衒を恨み、楼主を極悪非道の男 と憎み、わが身の情けなさに歯を噛んで泣く、と大正時代に吉原の花魁だった 森光子さんという人が書いているそうだ。 そして、死んだら、母や妹はどう するだろう、沢山の借金を背負って、又苦しむのかと思うと、死ぬ決心が、や がて開き直った気持に変っていくという。  こういうのを読むと、落語の廓噺に、ただアハハとは笑っていられない気持 になる。

 貸座敷*…明治5年、マリー・ルーズ号事件に関してペルー政府から遊女屋 は奴隷制度だと指摘された明治政府は「娼妓解放令」を出して、傾城屋、娼家、 妓楼、青楼、女郎屋、遊女屋と呼ばれるものはすべて「貸座敷」と呼ぶことを 命じた。 遊廓を認めないこととし、廓は単に女性に座敷を貸すだけの「貸座 敷」とし、「芸娼妓」を職業としたい女性は自分の意志で「鑑札」を得て仕事を することにした。 だが呼び名は変っても、内実はまったく同じだった。