一高から東大、『万葉集』から「国語学」へ2011/02/18 07:19

 大野晋さんは、駒場の北寮に入り、後年「一高は知と芸術と遊びの花園だっ た」と書く「多力(たりょく)」で豊かな仲間たちの中で、自分は「少力」だと いう、みじめな思いにとらわれる。 しかし、国語教師で『万葉集』の研究者、 五味智英に相談して、『万葉集』の勉強を始める。 三高との対抗戦応援のため 京都へ行き、一人奈良へ回る。 柿本人麻呂が歌を詠んだ土地を歩きながら、 人麻呂は先のことなど思いわずらうことなく、全身の力を込めてその時を詠っ たのだと、気づく。 自殺さえ考えた出口のない長いトンネルの先に、一条の 光が見えた。 「少力」は少力なりに、全力で進むしかない、と。 幸い伊藤 忠商事の伊藤忠兵衛の奨学金がもらえることになり、本代に困ることがなくな った。

 時代は戦争への道を歩み始めていた。 大野さんは、東大の国文学科で『万 葉集』の研究をするつもりでいたが、しだいに「日本語とは何か? 日本人と は何か?」という疑問が大きくなり、「国語学」へと向かうことになる。 厳し い橋本進吉教授の講義を聴き、日本語の研究には、一字一語の発音と意味を確 かめ、一歩一歩進める厳密、厳格な立証や実証が必要だという姿勢、態度が不 可欠なことを学んだ。 その教えは、それから約七十年におよぶ大野さんの研 究者生活を貫くことになる。 大野さんは橋本進吉の志を継ぎ、『日本書紀』の 万葉仮名には清音と濁音の区別があったことなどを中心に卒業論文を書き、昭 和18(1943)年9月東大を卒業した。 戦局は厳しさを増していて、その翌 月には雨の神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われた。 翌年春、大野 さんは、国語研究室の有給副手となる。