明治14年、日本の曲り角2014/06/04 06:31

 自由民権運動が高まり、「五日市憲法草案」がつくられた明治13年、14年と いえば、交詢社が発会し、その「私擬憲法案」が発表され、明治14年の政変 が起った時期に重なる。

 明治10年の西南戦争後、福沢は政治の方向として民会、そして国会の設立 という目標を提示していった。 明治12年夏の福沢の『国会論』の頃から、 国会開設運動が盛り上がってきた。 愛国社が再興されて民権運動が高まると、 福沢も文筆や門下生を通じて運動を支えたが、民権論者が「政権」にばかり関 心を持ち、「民権」そのものの拡張に無関心であると批判し、まずは人民の気力 を充実させることが重要であるとした。 その手段の一つとして「智徳見聞」 の拡大、そのための修学や討論の促進が必要だと主張した。 「知る所を人に 告げて、知らざる所を人に聞くは最も大切」と説き、「知識を“交”換し世務を 諮“詢”する」ことを目的に、明治13年1月25日、交詢社を創設した。

 当時政府部内で最も有力、進歩的な参議大隈重信(肥前佐賀出身)が、明治 14年3月、15年末に選挙、16年に国会開設、それも議院内閣制によるという 急進的な意見書「大隈参議国会開設奏議」を提出した。 交詢社では、その意 見書を起草した太政官大書記官矢野文雄をはじめ、小幡篤次郎、中上川彦次郎、 馬場辰猪らが集まり、憲法の研究を重ね、その成果として「私擬憲法案」がま とめられ、明治14年4月25日の『交詢雑誌』に発表された。 これとほぼ同 文のものが5月20日から6月4日の『郵便報知新聞』に「私考憲法草案」と して連載され、広く社会に流布した。

 これより先、明治13年末、井上馨から福沢に「官報」(といっても政府が支 援する責任ある「新聞」)の発行への協力依頼があり、国会開設の決意も聞かさ れた。 明治14年1月には、福沢、井上に伊藤博文、大隈も加わって、交歓 の場が持たれた。

 大隈重信が、明治天皇の東北北海道巡幸に供奉して旅行中、薩長藩閥の政治 家が相謀ってその罷免を決め、10月11日大隈が帰京すると、御前会議で大隈 参議の罷免、北海道開拓使官有物払い下げの中止、明治23年の国会開設が決 定され、翌日発表されたクーデター類似の事件が「明治14年の政変」である。  政変は、大隈が福沢や三菱の岩崎弥太郎と謀って、政府を転覆しようとしたと いう流説があり、政府上層部がそれを信じたため起ったようである。 大隈の 辞職とともに、慶應義塾出身者で官吏になっていたものは、ほとんど一斉に罷 免された。 矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄の名がその中にある。 政変で、「官 報」発行の話も立ち消えになり、福沢は自分で『時事新報』を創刊することに なる。

明治14年の政変によって、井上毅(こわし)の起案によるプロシャ型憲法 にもとづく天皇制国家体制の方向が定まったのである。 明治22(1889)年 大日本帝国憲法発布によって、立憲君主制の国家体制が確立し、明治国家の基 礎が据えられた。 これより少し前から、啓蒙思想の政府からの排斥が始まり、 復古的な教育、徳育の復活も行なわれた。 井上毅と元田永孚(ながざね)が 起草した明治23年の教育勅語の発布は、呪縛力の強い言説空間をつくり出し、 その演じた役割は大きい。

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