琉球の国王・尚(しょう)氏2015/01/06 06:31

 12月20日の折口信夫・池田彌三郎記念講演会で、保坂達雄東京都市大学名 誉教授の「昭和十年代の折口信夫―『琉球国王の出自』を中心に―」を聴いた。  私はかねてから、琉球の国王尚(しょう)氏は明治5(1872)年明治政府によ って琉球藩王とされて、明治12(1879)年の琉球処分後、どうなったのか、 今はどうしているのか、それについてあまり言及されることがない、いつか調 べてみたい、と思っていた。

 それで「尚氏」について、まず『広辞苑』を引いておく。 しょうし【尚氏】 「琉球の王家。思紹・尚巴志(しょうはし)父子が15世紀初め沖縄本島の山 南・山北・中山を統一して首里に統一政権をつくる。普通これを第一尚氏とい う。7代で滅び、1470年尚円により第二尚氏の王朝が成立、以後その勢力は近 隣諸島にも延び、19代400年にわたって琉球を支配した。1872年、尚泰(1843 ~1901)は明治政府により琉球藩王とされたが、79年琉球処分により東京に 移住。→尚寧」とある。

 ついでに、しょうねい【尚寧】も見ておくと、「琉球国中山王。第二尚氏7 代。1609年薩摩の島津氏の侵攻を受けて捕虜となり、3年間抑留後帰国。琉球 が島津氏の付庸(従属国)とされたのを恥じ、王家の玉陵に入ることを拒んで 没。(在位1589~1620)(1564~1620)」

 『日本歴史大辞典』の「しょうし【尚氏】」には、「琉球王家の姓。尚巴志(し ょうはし)が中国皇帝から賜ったと伝えられる。その年代については『中山世 鑑(ちゅうざんせいかん)』では1428年(尚巴志7)、『中山世譜(ちゅうざん せいふ)』は1430年、『球陽』が1434年と正史によって差異がある。また『歴 代宝案(れきだいほうあん)』には、1424年の永楽帝からの勅諭にはすでに「尚 巴志」の名が記されているとの記述があり、「尚」の意味も含め、不明確な部分 が多い。7代尚徳(しょうとく)王のとき、内間(うちま)領主金丸(かにま る)によって滅ぼされたが、金丸も尚姓を継承して尚円と名乗った。通常、前 者を第一尚氏、後者を第二尚氏と呼ぶ。近世の諸士家譜(系図)整備事業に伴 い、王家の支流は「向(しょう)」姓を名乗り、王家と区別されるようになった。」 とある。

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